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夫婦の理想的あり方とは Thy husband is thy lord


じゃじゃ馬馴らしの最後の場面でカタリーナが女たちに語りかける言葉は、問題が多いとされるこの劇の中でも最も問題が多いとされ、これまでに様々な議論を呼んできた。その多くはこの言葉に盛られた女性蔑視ともいえる内容を、果たしてシェイクスピアがどんなつもりで差し込んだのかということだった。

しかもシェイクスピアはこの女性蔑視の言葉を、ほかならぬ女性の中の女性ともいえるカタリーナの口を通じて吐かせている。

結婚したばかりの三組の夫婦の夫たちが、それぞれの妻に対して、こちらへ来るよう命じる。すると二人の妻は夫の命令を無視し、カタリーナだけが言いつけどおりにやってくる。劇の流れからすれば、観客にとって思いがけない展開だ。もっと思いがけないことには、あのじゃじゃ馬だったカタリーナが、他の二人の妻に対して、夫の命令を無視したことの不逞ぶりをそしるのだ。

   夫は妻にとっては主人であり命であり
   守護者であり導き手でもあるの
   妻たちを守るために命を懸けて
   海や大地を駆けずり回っているのです
   嵐の夜に見回り 寒さの中を歩き回るのも
   妻たちが家の中で安全に暮らせるようにするため
   その見返りに夫が求めるのは
   妻たちの愛情と笑顔と心の優しさなのです
   臣下たるものが主人に対して義務を負っているように
   妻たちも夫に対して義務を負っているのです
   その妻たるものがわがままばかりいって
   夫の意思に忠実でないとすれば
   そんな妻は自分を愛する主人に対する
   不逞の反逆者 恩知らずの徒といわねばなりません(第五幕第二場)
   Thy husband is thy lord, thy life, thy keeper,
   Thy head, thy sovereign; one that cares for thee,
   And for thy maintenance commits his body
   To painful labour both by sea and land,
   To watch the night in storms, the day in cold,
   Whilst thou liest warm at home, secure and safe;
   And craves no other tribute at thy hands
   But love, fair looks and true obedience;
   Too little payment for so great a debt.
   Such duty as the subject owes the prince
   Even such a woman oweth to her husband;
   And when she is froward, peevish, sullen, sour,
   And not obedient to his honest will,
   What is she but a foul contending rebel
   And graceless traitor to her loving lord?

この言葉をどう受け取るかは人様々だろう。最もありふれているのは、ペトルーチオの調教が成功して、じゃじゃ馬が貞淑な妻になったことを強調していると受け取るものだ。

一般論として見れば、これは夫と妻との間にある不平等な関係を強調している言葉だ。夫は妻に与え、妻はそれを受け取る。妻は夫の意思に従い、夫は妻の優しさを期待する。このいわば伝統的な夫婦間のあり方を、ほかならぬカタリーナが説教している。

カタリーナはなぜこんなことを言うまでに変わってしまったのか。あの天真爛漫だったカタリーナがである。

しかもカタリーナはビアンカたちに対して、夫の前でひれ伏しなさい、わたしもそうしますとまでいっている。それに対してペトルーチオは「それでこそ女というべきもの」と答えている。いったいどうなってしまったのか、観客たちはそう思うに違いない。

これはおそらく、シェイクスピアの時代に芽生えつつあった夫婦間の新しいありかたをシェイクスピアが敏感に感じ取って、それを時代に先駆けする形で強調したことを物語っているのではないか、筆者などはそう受け取りたい。

夫婦の関係というものは、一定の枠組みの中で形作られるのだということを、シェイクスピアはここでほのめかしているのではないか。つまり時代は変わり、これまでの社会には見られなかった新しい夫婦関係が生まれつつある、そのことをシェイクスピアは提示しているのだと考えることもできる。

カタリーナが夫の前にひれ伏すのは、そうすることが二人の関係にとってプラスに働くからだ、そうすればペトルーチオはますますカタリーナが可愛くなるだろうし、カタリーナも夫を自分の意思どおりに行動させることが出来る。

こうしてみれば、シェイクスピアは新しく生まれつつあったブルジョア家庭を念頭に置いて、夫婦の関係をさめた目で見ていた可能性がある。

妻が夫の意思とは別に勝手に振舞うことは、中世の共同体的な秩序の中ではよくあったことだ。そこでは妻は夫にとっての妻であると同時に、共同体の中の自立した成員としての地位も保証されていた。だから妻にとっては夫との生活だけが世の中ではなかった。

シェイクスピアの劇の多くは中世・ルネサンス以来のカーニバル的な伝統と深く結びついている。そこには笑いが横溢し、卑猥な言葉があふれ、生命の謳歌ともいうべき祝祭的な雰囲気がいたるところに見られる。こんな空間においては、女もまた男同様に祝祭のなくてはならぬ演技者の一人として登場する。女だからといって遠慮するいわれはないのだ。

だがブルジョワ社会は違う。シェイクスピアの時代に広範に生まれつつあったブルジョアの家庭では、夫婦は他の世界から隔絶されたミニ世界とも言うべきものを形成するようになっていた。彼らは家庭を単位にして、そのなかで子供を育て、また世間を渡っていかねばならない。共同体の時代のように世間に埋没しているわけではなく、世間から一応自立した閉じられた空間、それが家庭というものを形作りつつあった。

世間に向かっては家の代表者は男である夫のほうだ。だから夫が家の主人として妻を服従させながら、ひとつの社会的な単位としてまとまりある行動をとっていく必要がある。カタリーナの言葉は、そんな社会的な背景の下で、新しく生まれつつあった家族がよりどころとしなければならない規準を述べたのではないか、そんな風にも思えるのだ。





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