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ヘンリー四世第一部 Henry W Part 1


父親の嘆き
フォールスタッフ登場What time of day is it
ヘンリー王子の二面的性格
ホットスパーの名誉
フォールスタッフとヘンリー王子の滑稽劇
フォールスタッフの兵隊
名誉とはただの言葉(フォールスタッフの教義問答)
命が欲しい Give me life
死んだ振り I am no counterfeit


シェイクスピアの一連の王権劇の中で、ヘンリー四世は独自な色彩感を持っている。一方では他の王権劇と同じテーマ、王権の正統性とは何か、誰が王権につくに相応しいか、そして王権を奪取するために人はどんなことをしても許されるのかといった歴史的・政治的なテーマを扱っているが、他の王権劇と同じ枠には収まらない部分を持っている。作品を彩っているカーニバル的雰囲気が、作品全体を単なる王権劇にとどまらせていないのだ。

それはフォールスタッフという、シェイクスピアが造形した人物の中でも、もっとも破天荒な人物がかもし出す祝祭感覚が、作品を一種のカーニバル劇に仕立て上げているところに由来する。

フォールスタッフはヨーロッパの中世・ルネサンスを通じて民衆文化の中に息づいていた道化の系譜に立つものだ。その意味でラブレーの世界と同じ根をもっている。またシェイクスピアのほぼ同時代人セルバンテスが生み出したドン・キホーテとも共通する性格を持っている。

その基本的な性格は反権威、というより没権威であり、世の中の秩序をはみ出して、あらゆるものをごちゃ混ぜにしてしまう破天荒さである。道化はあらゆるものを相対化する。聖なるものと俗なるもの、天上的なものと地上的なもの、支配するものと支配されるものとが同一の平面で語られる。正しいものは間違ったものの裏返しであり、悪は容易に正義に転化する。フォールスタッフの稼業は盗みであるが、盗みは決して悪としてではなく、ゲームのような気軽さでなされる。

フォールスタッフが容姿の面でも行動の面でもラブレーのガルガンチュアによく似ていることは印象的だ。まず巨大な太鼓腹で背丈はずんぐりむっくり、赤ん坊をそのまま大人にしたようでなければならない。行動の原理は単純そのもの、ひたすら目の前の欲望を満足させることだ。ガルガンチュアは「飲みたーい、飲みたーい」といって生まれてきたが、フォールスタッフも口腹の欲望に対して忠実なことはガルガンチュア同様だ。

フォールスタッフはまたよくしゃべる。そこはガルガンチュア以上だ。しかもそのしゃべる内容は、世の中の権威とか正義といったものとは全く無縁のことだ。フォールスタッフにとって、関心のあるところは自分の欲望であり、自分の命である。フォールスタッフはこの劇のクライマックス部分で、死んだ振りをして生き延びるが、それは別に臆病とか卑怯とかいうことと関係なく、ひたすら生きることに意味があるから、なされた行為だ。世の中で最も大事なことは生きることだ、そして生きることとは欲望に忠実なことだ、これがフォールスタッフの哲学である。

こんな破天荒な道化をシェイクスピアは何故王権劇の中に差し入れたのか。それはシェイクスピアがルネサンス人であったことと無縁ではない。

ルネサンスという時代は、中世の古い因習を打破して近代への道を切り開いた時代として要約されるが、それは同時に、中世に抑圧されていたものを一気に解放する作用をももたらした。カーニバルや道化に体現される民衆文化はその最たるものである。この民衆文化の土壌のうえで、新しい文学が花開いた。ラブレーの一連の作品がそうであり、エラスムスを代表とする北欧の滑稽文学がそうである。

シェイクスピアと彼の同時代人セルバンテスも、こうした流れに立っていたといえる。宗教改革を経て近代が窮屈な時代としてたち現れる以前に、彼らは中世以来の民衆文化のエッセンスを自らの作品に結晶させたのである。

シェイクスピアは、歴史劇の中の脇役として道化のフォールスタッフを組み入れたが、後には道化そのものが主人公に劣らぬ役割を果たす作品を書くようになる。一連の祝祭喜劇がそうであり、中でも「お気に召すまま」のタッチストーンと「十二夜」のフェステは、シェイクスピア的道化のひとつの到達点を示している。

しかし、「ヘンリー四世」という作品にあっては、フォールスタッフはあくまでも脇役である。その破天荒さが劇に華やかな彩をもたらし、観客はフォールスタッフの挙動に振り回されることで、ややもすればフォールスタッフこそ劇の主役であるかの如き印象さえ持たされるが、真の主人公は別にいる。それはヘンリー四世の皇太子ヘンリー王子である。

ヘンリー王子は皇太子として国王の後を継がねばならぬ立場にありながら、フォールスタッフの一味と無頼の毎日を送り、国王たる父親ヘンリー四世をがっかりさせている。その父親はリチャード二世を抹殺して王権を奪取したのだが、そのことによって自らの正統性に疑問を呈せられ、深刻な内乱に直面している。シェイクスピアの王権劇に共通した、王権をめぐる闘争のテーマがここにも貫かれているのである。

父親をがっかりさせるヘンリー王子だが、彼はいつまでも無頼でいるわけではない。やがて時が熟せば勇敢な闘士となって敵を倒し、自ら国王の後継者であることを実証してみせる。

このようにこの劇は、ヘンリー王子の立場に立って解釈すれば、人はいかにして有能な君主となるかについての、一種の道徳劇的な色彩も有している。

しかし本筋はあくまでも、王権をめぐる争いを描くことだ。ここでヘンリー四世に敵対する勢力のチャンピオンはホットスパーである。この男はヘンリー四世自らが自分の息子と逆になって欲しいと願ったほど、戦士として優れた能力を持ち、道徳的にもヘンリー王子に勝る部分を持ってさえいるが、やがてヘンリー王子との決闘に敗れて死ぬ。他の王権劇では、追われる王はいつもおののいているが、ここでは息子の勇気によって救われるのである





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