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ティリアード「エリザベス時代の世界像」


ユニークなシェイクスピア研究で知られるT.M.W.ティリアードは、シェイクスピアが生きていたエリザベス朝時代が、プロテスタンティズムの二つの興隆の間にはさまった非宗教的な時代であるとする一般的な通念を排して、この時代を中世的な世界像との連続した層のもとにとらえるべきだと主張する。

ティリアードによれば、そうした伝統的な世界像はピューリタン革命によっても滅びることなく、17世紀一杯生き延びたのである。

一見中世的な伝統からは解放されているかに見えるシェイクスピアも、実際は中世の伝統的な世界観を引きずっていたのであり、その要素を見逃しては、シェイクスピアを正しく理解することはできないという。

「エリザベス朝時代の世界像」(磯田光一訳研究社刊)は、そうしたティリアードの主張を体系的に展開したものだ。彼は「ハムレット」から次の一節を取り出す。

「なんという出来栄えだろう、人間という生き物は。理性は高貴、才能は無限、その立居振舞は何と敏活でまた立派なことか。ひとたび行動を起こせば天使の如く、悟りのはやいこと神の如くだ。世界の美、万物の模範たる人間よ」

我々現代人はこのセリフが、「ルネサンス・ヒューマニズムの偉大な英国的表現の一つ、中世的な人間否定の思想に対する人間の尊厳の主張として」取り上げてきたが、「実は全く中世的な伝統の中にあるものなのだ。すなわちそれは、神と同じ姿に作られた人間の堕落以前の状態への賛歌・・・をシェイクスピア流に翻案したものなのである。それはまた、シェイクスピアが人間を、天使と動物の中間という伝統的な宇宙配置の中に据えていることをも意味している」

つまりシェイクスピアは我々が考えているような現代人の先駆者と云うより、中世人の末裔として、伝統的な神学的世界観を引きずっていたということになる。こうした観点からシェイクスピアの作品を読み直すと、シェイクスピアの世界が全く新しい光のもとで浮かび上がってくる。そしてそうした姿こそが、シェイクスピアが本来意図していたものに近いはずなのである、とティリアードはいう。

ではシェイクスピアを含めてエリザベス朝の人々が抱いていた世界像とはどのようなものなのか。

ティリアードはそれを、宇宙、国家、人間そして自然を通じて調和の層のもとに理解しようとする態度だとしている。あらゆるものは調和の秩序のうちに存在する。なぜなら神は世界を調和するように作っているからだ。調和の乱れとしての混乱はあくまでも例外的な事象に過ぎない。世界は究極的には調和に向かうように作られているのだ。

この調和は、もろもろの存在の連鎖(Chain)として、さまざまな存在の平面同士がおりなす対応(Correspondence)として、存在の動的な相としての舞踏(Dance)として、という三つの様相からとらえることができる。

存在の連鎖とは、一軒混沌として見える存在者の存在のあり方が、実は静的な秩序に従っているとする見方である。如何なる存在者も一定の秩序ある体系の中に位置を占めるのだ。その秩序とは階層のことである。階層は天体間にも、自然界にも、社会にも存在する。神はそれらの一切の階層を超越した存在であり、宇宙や自然、人間界と云ったものを創造したものである。

対応とは、さまざまな階層の間に成立する一定の関係をさす。たとえば宇宙と人間とを大宇宙と小宇宙として対応させるようなものである。人間の頭は最も高貴なものだから、それは高貴な天との対応によって説明され、心臓は人間の身体の中心にあるところから、宇宙の中心である太陽に結び付けられるといった具合である。

要するにあらゆるものをそれ単独の相においてみるのではなく、他の相との比較のうちに見ようとするのだ。その意味でこの態度は比喩を想起させる。比喩とりわけ隠喩を通じて、個々の存在者を存在の体系の中で的確に位置付けようという意欲の表れとみることができる。

以上二つの要素が静的な秩序を示しているのに対して、舞踏は存在の動態的な側面を表すものである。存在者は静的な秩序の中にあって単に静的に存在しているばかりではなく、様々な動きをするものだ。抽象から具象へ、理想から現実へ、聖なるものから俗なるものへの推移といったものがそれである。

その動き乃至推移は一定の秩序に従ってなされる。舞踏である。あらゆる事象は「天球の音楽に合わせて、前に後ろに、うっとりとして回転する」のである。何故舞踏なのか。人間の動きが存在全体の動きへと、隠喩を通じて拡大しているのである。

このように世界あるいは宇宙といったものは一定の秩序に従って存在する。人間も、人間が形成する社会もそうである。すべては秩序の相の中で初めて存在の根拠を与えられるのだ。

この世界観がきわめて宗教的なことはいうまでもない。秩序全体が神によって創造され、神のみに存在の根拠を負うと考えるのだ。

このようにティリアードが、シェイクスピアの抱いていた世界観を中世的なそれとの連続性のうちにとらえたことは説得的だ。ルネサンスとは、バフチーンもいうように、中世との断絶の相にではなく、それとの連続性においてとらえられるべきだからだ。

そうはいっても、ティリアードの説はバフチーンに比べると極めてスタティックだといわざるを得ない。バフチーンは、ルネサンス的世界像は中世的なそれの延長上にあるものとして、神学的な残渣を多く含んでいると認めると同時に、その中にあるダイナミックな要素の方により注目した。静よりも動、秩序よりも破壊、そして生と死のダイナミズムなどだ。これらは神学的な世界観ではなく民衆の素朴な世界観に由来するものだ。民衆のもつ巨大なエネルギーが、歴史を動かしてきたとするのがバフチーンの基本的な立場だった。

それに比すればティリアードは、中世的世界観に含まれた神学的、キリスト教的側面に気を取られ過ぎているといわざるを得ないようだ。





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