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私生児エドマンド:シェイクスピアの悲劇「リア王」 |
シェイクスピアは道化を描くのが得意だったが、それに劣らず悪党を描くことにもたけていた。彼の描いた悪党の中で最大の悪党は無論マクベスだ。マクベスは悪党の中でもスケールが一回りも二回りも違う。マクベスは人間の中に潜む、つまり人間であればだれもが持っている、悪というものを形に表したもの、つまり悪の権化ともいえる。 マクベスほどではないが、「オセロ」のイヤーゴも飛び切りの悪党だ。というのは、イヤーゴにとっては悪をなすとは生きることそのものなのだ。イヤーゴは自分のあくどさによって他人がどんな迷惑をするかなど、これっぽっちも考えていない。言い換えれば、イヤーゴは絶対的な観点から悪を行為するのだ。 絶対的な悪とは、形容矛盾に聞こえるかもしれない。というのは悪という概念は極めて倫理的な意味作用を持っており、したがってそれは相対的な概念だからだ。倫理的とは、言葉の本来の意味からして人間相互の相対的な関係に立った概念と云う意味である。 それはともかくとして、「リア」王に出てくるエドマンドも、イヤーゴに似た悪党だといえる。しかしイヤーゴに比べれば幾分中途半端な悪党でもある。イヤーゴは悪のための悪、つまり絶対的な意味での悪を目指すのに対して、エドマンドの悪行には相対的な色合いが強い。 それはエドマンドの悪行が私憤に根差しているからだ。その私憤とは自分の生まれに対する憤慨に基づいている。エドマンドは私生児なのだ。私生児である限り、彼は一人前の人間として扱われない宿命にある。 そんなことは自分の能力を自負している人間にとって耐えがたいことだ。私生児が正嫡の子より劣っているなどと考える輩は狂った意見を持っているのだ。自然の傾向から考えれば、むしろ私生児の方が高い能力を持っている場合が多いのだ。何故なら私生児を産むためには、男も女も通常以上の情熱と能力を傾けなければならないからだ。 エドマンド:なんで俺たちに烙印を押すんだ やれ不義の子だのと 私生児だのと? 私生児は溢れるような自然の行為から生み出される だから体力も気力も人並み以上だ そんじょそこらの間抜け野郎どもが 味気ないベッドの中で 何となく種付けされたのとは大違いだ Edmund:Why brand they us With base? with baseness? bastardy? base, base? Who, in the lusty stealth of nature, take More composition and fierce quality Than doth, within a dull, stale, tired bed, Go to the creating a whole tribe of fops, Got 'tween asleep and wake? (1.2) こうしてエドマンドは、世間に対して自分の能力を正当に認めさせようとする。そのためには父親のグロスターを欺き、正嫡の兄弟であるエドガーを陥れ、自分こそグロスターの名誉と財産を継ぐのだと認めさせなければならぬ。 結局悪知恵にたけたエドマンドは、嫡子のエドガーを追放し、自分がグロスターの後継者に居座る。それのみか、権力欲に駆られて王権の奪取まで考えるようになる。そのためにリア王の二人の娘、ゴネリルとリーガンに色目を使う。この二人はそんなエドマンドに夢中になってしまうのだ。 エドマンドの悪行の中でも最も悪逆な行為は、自分の父親を陥れ、ひどい目に合わせることだ。 エドマンド:こいつは手柄になりそうだ 親父のものは何もかも俺が手に入れよう 年寄りが没落したあとに若者がのし上がるのだ EDMUND:This seems a fair deserving, and must draw me That which my father loses; no less than all: The younger rises when the old doth fall.(3.3) 第3幕第7場で、グロスターは目玉を繰り抜かれる。このことに預かったのはリーガンとコーンウォールで、エドマンドはその場にはいない。しかし時間の流れの中で、そのことに深くコミットしていたことは確かだ。 盲目になったグロスターは、自殺の機会を求めて放浪の旅をつづけ、自分の嫡子エドガーと出会う。そしてエドガーに導かれてドーヴァーの断崖に行き、そこで飛び降り自殺を図るのだ。 その間、エドマンドの方は、ゴネリル、リーガンの二人から愛の目配せを受ける。 エドマンド:この女たちにはふたりとも色気を使っておいた どちらも互いに妬みあっている こいつらのどちらをとろうか どちらともか 片方だけか それとも二人とも捨てるか EDMUND:To both these sisters have I sworn my love; Each jealous of the other, as the stung Are of the adder. Which of them shall I take? Both? one? or neither? Neither can be enjoy'd,(5.1) 悪党の影には、悪女の存在がある、しかも一人ならず、二人もだ。 ひとつ観客にわからぬことは、エドマンドが終始一貫した悪党ではないことだ。彼は劇の最後近くで父親の運命を聞かされるや、俄然後悔を始めるのだ。 シェイクスピアがなぜこんな中途半端な役柄をエドマンドに負わせたのか、筆者などにはわからない。 |
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