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愛は盲目Wing'd Cupid painted blind:シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」 |
真夏の夜の夢は恋の多重奏ともいうべき構成をとっている。劇全体の主催者とも言うべきテーセウスとヒポリタの婚姻の周囲に、オベロンとティターニアの駆け引き、ティターニアとロバの夢幻的な恋、ハーミア、ヘレン、ライサンダー、デメトリウスの四人の若者が繰り広げる錯綜した恋、そして職人たちがテーセウスの婚姻を祝うために行う劇中劇としてのピラマスとシスビーの悲恋物語、これらいくつもの恋が錯綜し、もつれ合うことで劇が進展していく。 劇の中で繰り広げられるこれらの恋は、どれもみな尋常な恋ではない。ティターニアはロバに変身したボトムに欲情をたぎらせ、ティターニアにそう仕向けさせたオベロンは、ティターニアが可愛がっている男の子を手に入れたいと、同性愛的な欲望に燃えている。 ハーミアら四人の若者は、複雑な関係に翻弄される。ハーミアはライサンダーと相思相愛の関係で、そのハーミアをデメトリウスが横恋慕し、そこにヘレナがデメトリウスを追いかけるというかたちで始まる。そしてオベロンの術にかかった後は、ライサンダーもデメトリウスもヘレナに心を奪われ、ハーミアは男たちから足蹴にされる。 また劇中劇のピラマスとシスビーの物語では、ライオンによる暴力の前で、ふたりともあえなく最期を遂げる。 こんな具合に、どの恋も錯綜した展開をするのだが、それらにはいくつかの共通点がないわけではない。中でも彼らの愛の盲目な点と、獣的であることとが目を引く。 たしかにこの劇で描かれている愛は、どれをとっても尋常な愛ではなく、狂った愛ともいうべきものだ。それらはひとりの男とひとりの女の心からの愛、明確な目的、たしかな対象に向けられた愛というより、なにか見えない力によって駆り立てられているような愛、愛の感情そのものがひとりでに爆発しているような愛である。 それをシェイクスピアはヘレナの言葉を通じて盲目の愛と言わせている。 ヘレナ:愛は目ではなく心で見るもの だから翼の天使キューピッドは盲目に描かれる 愛の心には分別など微塵もない 目ではなく翼でものを見ようとして いつもだまされてばかりいるものだから 愛は子どもだといわれるんだわ いたずら小僧が平気でうそを並べ立てるように キューピッドもでたらめばかりいう デメトリアスもハーミアを見るまでは 愛するのは私一人だけなどといっていたのに ハーミアの熱に触れるやいなや 心はとろけ 私への誓いも消し飛んだ(第一幕第一場) HELENA:Love looks not with the eyes, but with the mind; And therefore is wing'd Cupid painted blind: Nor hath Love's mind of any judgement taste; Wings and no eyes figure unheedy haste: And therefore is Love said to be a child, Because in choice he is so oft beguiled. As waggish boys in game themselves forswear, So the boy Love is perjured every where: For ere Demetrius look'd on Hermia's eyne, He hail'd down oaths that he was only mine; And when this hail some heat from Hermia felt, So he dissolved, and showers of oaths did melt. ヘレナの言葉にあるように、愛の天使キューピッドは盲目の天使として描かれている。キューピッドは目ではなく羽根で愛の対象を捉える。だから選択に誤ることが多い。キューピッドにとっては、愛は燃えることこそ肝心なのであって、理性的な打算はつけ入る隙がない。 この劇で描かれている愛も、そうした盲目の愛なのだ。 またこれらの愛は、人間的な愛というより、獣の愛を思わせる。ティターニアがとりこになるのはロバの頭を被せられ、全身毛むくじゃらの獣になったボトムである。そのボトムをティターニアはベッドに誘い、性的な快楽に耽ろうと夢見る。ティターニア自身妖精の女王として、自分の周囲に獣的な雰囲気を漂わせた存在だ。 若者たちの愛も、瞬間的な結合を目指している点で獣の愛に近い。ヘレナはデメトリアスの愛を求めて、自分はいっそスパニエル犬になりたいといっている。 ピラマスとシスビーはライオンの介在によって死ぬのであるが、二人とも恋人がライオンに食われたと妄想することで、死ぬことによって結ばれるのである。 こうして獣的な狂った愛のもつれ合いの果てに、劇は週末を迎える。そのときにテーセウスが出てきて、恋人たちを狂人にたとえるのだ。 テーセウス:恋人も狂人も頭の中が沸騰し あられもない幻想でいっぱいだから 理性では考えられないことを思いつくものだ 狂人も恋人も詩人も みな幻想のかたまりなのだ Theseus:Lovers and madmen have such seething brains, Such shaping fantasies, that apprehend More than cool reason ever comprehends. The lunatic, the lover and the poet Are of imagination all compact:(第五幕第一場) |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2009-2010 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |