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十二夜の精神 Excess of it :シェイクスピアの喜劇「十二夜」


十二夜と題する喜劇に、シェイクスピアはなぜそう名付けたか、いろいろな解釈が成り立つ。なかでも最も説得力があるのは、この劇全体が、十二夜に演じられるバカ騒ぎを現しているというものだ。

十二夜とは、キリスト教の行事で、クリスマスにかかわる一連の行事を締めくくる日である。この日は夕方から深夜にかけて、カーニヴァルと同じようなどんちゃん騒ぎが演じられ、一種の無礼講が許された。この無礼講を支配するのは、あらゆる秩序の転覆である。ひとびとは飲み食いにうつつをぬかしながら、秩序をひっくり返しては腹を抱えて笑うことが許されたのである。

ではこの劇のどんな要素が、カーニヴァル的な秩序侵犯に通じているのか。オリヴィアの叔父さんとされるトビーと、彼をとりまく連中がそのヒントを与えれくれる。

  トビー:こっちへきなよ、アンドリューさん。
   夜中を過ぎても起きてるのは、早起きと同じこっちゃ、 
   「早起きは健康のもとなり」というだろ。
  アンドリュー:いやあ、そんなことは聞いたことがない、
   夜遅くまで起きてるのは、夜更かしっていうんだろ
  トビー:間違った結論だな、空の徳利みたいで気に入らん
   夜中過ぎまで起きてるってことは、夜明近くまで起きてるってことだ、
   とすりゃ、夜中過ぎに寝るってことは、夜明け近くに寝るってことだ、
   つまり早起きってことじゃないか、
   この世が四大元素からできてることは知ってるだろ?
  アンドリュー:そうもいうけど、むしろ飲み食いから
   できてるんじゃないかと、 ぼくは思うね (2幕3場)
  SIR TOBY BELCH:Approach, Sir Andrew: not to be abed after
   midnight is to be up betimes; and 'diluculo
   surgere,' thou know'st,--
  SIR ANDREW:Nay, my troth, I know not: but I know, to be up
   late is to be up late.
  SIR TOBY BELCH:A false conclusion: I hate it as an unfilled can.
   To be up after midnight and to go to bed then, is
   early: so that to go to bed after midnight is to go
   to bed betimes. Does not our life consist of the
   four elements?
  SIR ANDREW:Faith, so they say; but I think it rather consists
   of eating and drinking.

トビーは仲間のアンドリューを相手に、蒟蒻問答を繰り広げる。夜明けまで起きているのは、夜更かしではなく早起きだと思え、なぜなら夜明けに目覚めていれば、それは早くから起きている証拠だからだ、だからもっとどんちゃん騒ぎを楽しもうというわけである。

そのトビーに、アンドリューは世界を構成しているのは四大元素などではなく、飲むことと食うことだといっている。飲み食いはカーニヴァルの精神そのものだ。

どんちゃんさわぎと口腹の幸せ、これはカーニヴァルの亜流である十二夜の精神だ、自分たちには、十二夜の最中にこうした精神を発揮する権利がある、と彼らはいう。この劇に、どんちゃん騒ぎとしての側面があるのは、そのためなのだ。

こんな屁理屈を述べて騒ぎまわるトビーたちにとって、マルヴォーリオは秩序の権現として対立する。彼はバカ騒ぎをする人々にとっての天敵なのだ。

  マルヴォーリオ:みなさん、気でも狂われたか?分別も、行儀も、体面もなく、この    夜中に鋳掛屋みたいなどんちゃん騒ぎとは、いったい
   このお屋敷を居酒屋とでも思ってなさるか、恥も外聞もなく
   尻取り歌をがなりたてているとは、あなたがたには、場所柄や
   身分や、タイミングの弁えがおありにならないのか?
  トビー:タイミングならわきまえて候、口に錠前をかける時間だ(2幕3場)
  MALVOLIO:My masters, are you mad? or what are you? Have ye
   no wit, manners, nor honesty, but to gabble like
   tinkers at this time of night? Do ye make an
   alehouse of my lady's house, that ye squeak out your
   coziers' catches without any mitigation or remorse
   of voice? Is there no respect of place, persons, nor
   time in you?
  SIR TOBY BELCH:We did keep time, sir, in our catches. Sneck up!

こうしてトビーたちとマルヴォーリオは対立を深める。最後に対立を制するのはトビーたちの側だ、つまり無秩序が秩序に勝利するのだ。これこそ十二夜の精神が貫徹されたと、いえなくもない。

  マリア:マルヴォーリオさんのことなら、わたしにまかしといて、
   あの人に一杯くわせられないようじゃ、このわたしも女がすたると
   いうもの、 うまくやってみせるから
  トビー:たいへんな鼻息だな、いったいどうしようってんだ? (2幕3場)
  MARIA:For Monsieur Malvolio, let me
   alone with him: if I do not gull him into a
   nayword, and make him a common recreation, do not
   think I have wit enough to lie straight in my bed:
   I know I can do it.
  SIR TOBY BELCH
   Possess us, possess us; tell us something of him.

トビーたちがマルヴォーリオを笑いものにする一連のシーンは、この劇の重要なプロットをなしている。それはマルヴォーリオが体現している秩序への愛が、これでもかこれでもかと、過剰に愚弄されるプロセスである。その過剰性は、オーシーノが劇の冒頭で独白する Give me excess of it, that, surfeiting, The appetite may sicken, and so die. という言葉を想起させる。

この過剰なドタバタ劇が幾組かの男女の愛の成就と結びつくことに、この劇のカーニヴァル劇としての本質が存在しているといえる。十二夜を飾るにふさわしい演目なのだ。

こんなわけで、この劇は全体が十二夜の精神にのっとって演じられている、そういえなくもないのである。



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