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フェステ Feste :シェイクスピアの喜劇「十二夜」


シェイクスピアが創造した道化の中で、十二夜に出てくるフェステは最も完成された形態といえる。破天荒な騒々しさや、観客の笑いを買う脱線ぶりという点では、フォールスタッフやタッチストーンのほうが上かもしれないが、フェステには、道化についての古典的なイメージが、もれなく織り込まれているのだ。

道化というものは、歴史的に見れば、ヨーロッパの中世からルネサンス期にかけて花開いたカーニヴァルの伝統の中から登場したものである。

カーニヴァルの精神は、単純に要約すれば、死と再生とに関する中世ヨーロッパ人の想像力を圧縮したものだ。宇宙とそこに生きる人間は、いったん死んでまた再生する。滅びる際には、既成のあらゆる秩序は否定され、正義と悪、上と下、賢と愚が逆さまになる。そしてその逆さまのどんちゃん騒ぎの中で、あらゆる自然的な欲望が解放される。一言でいえば、世の中が転覆するわけだ。

道化はこの転覆した世界にあっての、水先案内人のようなものなのだ。

そんな道化の典型的な姿として、秩序の象徴である王の召使いだという点があげられる。道化が単なる秩序侵犯者であったなら、彼の行為は外部からの批判にとどまるだろう。秩序の内側にあって、その秩序を否定するからこそ、それは秩序にとっての内在的批判、つまり自己批判になりうる。

フェステはこの劇の王であるオーシーノ公爵の召使いではないが、オリヴィアの召使いである限りにおいて、劇の秩序全体にとっては、内なる人である。だから彼の発言は、内在的な批判になりうるのだ。

彼の批判は、劇に登場するあらゆる人に向けられる。とくに自分をまともだと思っている人たちに手厳しい。彼の批判はとりあえず、人々の価値感を逆さまにすることが目的なのだ。

  道化:知恵の神様よ、どうか俺をすばらしい阿呆にしてもらいたい
     あなたの僕だと吹聴しているやからが、実は阿呆だったということは
     いくらでもある、逆に阿呆を自認しているものが、利口者でとおる
     こともある、キナパロスもいってるとおり
     「阿呆な利口ものより、利口な阿呆のほうがましじゃ」(1幕5場)
  Clown:Wit, an't be thy will, put me into good fooling!
   Those wits, that think they have thee, do very oft
   prove fools; and I, that am sure I lack thee, may
   pass for a wise man: for what says Quinapalus?
   'Better a witty fool, than a foolish wit.'

阿呆と利口との境界は、日常の生活の中では問題になることはない。世の中の秩序をわきまえているものが利口な人間なのであり、したがって身分の高い人を敬い、バカげたことを自重するのが肝要なことなのだ。

だがこの秩序が問題にならないケースもある。カーニヴァルの祝祭の中では、利口であることは価値ではなくなる。そこでは利口と阿呆、上と下、真理と虚偽の区別がなくなり、あらゆる秩序が逆さまになる。

この逆さまはしかし、カーニヴァルのような、ある特定の場面でしか許容されない、日常の場面でこの逆さまを通そうとする者がいれば、それは狂人とみなされるであろう。だが中には、日常の場面においても、逆さまぶりを大目に見てもらえるものもいる、道化がそれだ。

  ヴァイオラ:この人は利口だから阿呆の真似ができるのだわ
     阿呆を務めるにはそれだけの知恵がいる (3幕1場)
  VIOLA:This fellow is wise enough to play the fool;
    And to do that well craves a kind of wit:

ヴァイオラは、フェステの道化ぶりが深い知恵に支えられていることを見抜いている、日常の世界の中で、世の中を逆さまにしようとすることは、強い危険を伴う行為だから、そこには深い知恵が必要になる、その知恵で人々を感心させるからこそ、道化のいうことは大目に見てもらえるのだ。

逆にマルヴォーリオは、自分がすでにカーニヴァルの空間の中で、演技を演じるべき役柄になっているにかかわらず、それを受け入れることができない人物として描かれている。彼は阿呆を演技しなければならないのに、舞台の上でも利口であることにこだわるために、とんだ阿呆を演じさせられてしまうのだ。

  マルヴォーリオ:道化め、おれは散々愚弄されたのだぞ
     俺は正気なのに お前同様にな
  道化:俺様同様にだと? ならあんたは正真正銘の阿呆だ
     利口なくせに阿呆のほうがいいというんだからな(4幕2場)
  MALVOLIO:Fool, there was never a man so notoriously abused: I
    am as well in my wits, fool, as thou art.
  Clown:But as well? then you are mad indeed, if you be no
    better in your wits than a fool.

このように、マルヴォーリオはまったく正気のつもりなのだが、カーニヴァル劇においては、正気は狂気の裏面であり、それにこだわることは、自分を相対的に見られない阿呆の所業に過ぎない。

フェステは、カーニヴァル劇の中のみにとどまらず、日常的に阿呆であることに成功しているかに見える。それは彼が常に阿呆であることに自覚的であったからだ。

  道化:というのも、味方面した奴は俺をほめてバカにするが
   敵は率直にバカだと言ってくれる
     だから俺は 敵によって己を知り
     味方によって欺かれるというわけだ (5幕1場)
  Clown:Marry, sir, they praise me and make an ass of me;
    now my foes tell me plainly I am an ass: so that by
    my foes, sir I profit in the knowledge of myself,
    and by my friends, I am abused:

最も見方によっては、この劇に流れている時間全体がカーニヴァルの時間なのであり、フェステもほかの登場人物もすべて、その異常な時間を生きているのだとする解釈も成り立ちうる。

そうした見方をとれば、十二夜という題名は、この劇全体の雰囲気を象徴した適切な命名だということになろう。



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