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機を見るに敏(ファルコンブリッジ):シェイクスピアの歴史劇「ジョン王」


シェイクスピアの歴史劇劇「ジョン王」に登場するキャラクターのうち、ファルコンブリッジは非常にユニークな役柄を演じている。シェイクスピアはこの劇を書くにあたって、淡々と進む時間の流れにアクセントを添えるために、わざわざこの人物を創造したのだと思われるのだ。もしこの人物がいなかったら、劇の進行はもっと単調なものになったろう。

ファルコンブリッジは、祝祭喜劇に出てくる道化的人物や「ヘンリー四世」のフォールスタッフのようには、あからさまな道化としては描かれていない。しかし彼が物語の進行の節々に発する言葉は、さかさまの真実を語っていて、道化の言葉と親縁性を持っている。

ファルコンブリッジはまた、物語の語り部のような役割をも果たしている。彼が節々に発する言葉は、劇の進行に刺激をもたらし、観客はその言葉に導かれて、演技の背後にあるものを理解し、共感する。このような人物は、他の劇では見られない。シェイクスピア劇全体の中でもユニークな存在だといえる。

ファルコンブリッジは第一幕の冒頭近くで早くも登場する。彼は父親の遺産相続を巡って弟と争っている。弟は兄の出生の秘密を暴露して、権利がないことを言い立てる。兄は母親が先王リチャード一世と寝てできた庶子だというのだ。

この話に興味を抱いたジョン王はファルコンブリッジに対して、あくまで正嫡の子として父親の財産を相続するか、それともリチャード一世が母親に孕ませた庶子であると認めるか、選択をせまる。そしてもし庶子であることを認めるなら、リチャード一世の生ませた子として、貴族社会に迎え入れてやろうと、言い添える。

悩んだ末にファルコンブリッジは、庶子であることを選択する。田舎地主としてさえない人生を送るより、サー・リチャード・プランタジネットとして生きるほうが、面白そうに思われたからだ。

そこで母親に対しても、自分が庶子であると認めるように迫る。母親は恥ずかしながらと自分の過ちを認める。こうしてファルコンブリッジは、ジョン王の取り巻きとして、劇が展開する世界に残るのだ。

ファルコンブリッジは、選択を決定するときに次のような言葉を吐く。シェイクスピアの名言のうちでも、ユニークなことで知られている言葉だ。

  それにしてもすばらしい社会だ
  俺のような野心のある人間には向いている
  人間機を見るに敏でなければ
  一生日陰者で終わってしまうからな
  But this is worshipful society
  And fits the mounting spirit like myself,
  For he is but a bastard to the time
  That doth not smack of observation;

ファルコンブリッジは王宮の華やかさに接して、こんな感想をもらすのだ。自分もこんな社会で生きてみたい。それには今がまたとないチャンスだ。これを逃せば自分には退屈な人生が待っているだけだ。人間は機を見るに敏でなければならぬ。

この言葉には、人間の上昇志向と、権力への意思が凝縮されている。シェイクスピア劇に出てくる人物は皆、上昇志向と権力欲の塊のような人間ばかりだが、それらをファルコンブリッジが代表して、このような言葉を吐いているのだとも受け取れる。

ここに出てくる bastard と言う言葉は意味深長だ。ファルコンブリッジは、父親の財産を相続したとすれば、社会的には日陰者、つまり bastard にならざるを得ないと言っているからである。法的なBastard であることを拒否すれば、社会的な bastard になってしまうと言うわけなのである。

ところで、ファルコンブリッジの bastard 性の問題は、ジョン王自身の正統性の問題と絡み合っている。ジョン王も常に王位の正統性を問題とされているからだ。正統でないものは bastard なのだ。

シェイクスピアはファルコンブリッジの bastard 性を巡るエピソードを冒頭近くに置くことによって、この劇全体のテーマを先取りしているのだともいえる。そこが憎いところだ。



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