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狂人が盲人を導く:シェイクスピアの悲劇「リア王」 |
シェイクスピアは悲劇「リア王」の中に、リア王の運命に劣らず悲惨なグロスターとその息子エドガーの物語を差し挟んだ。リア王の物語をメインテーマとすれば、これはサブプロットだが、そこで展開される運命は、リア王以上に凄惨なものだ。観客はグロスターの運命に救いがないことを見てとり、運命というものがもし存在するとしても、それが残酷な嘲笑でしかありえないことに、身震いするのだ。 ヤン・コットが指摘するように、「リア王」という劇は、世界の不条理さに焦点を当てた劇である。リア王の場合には、自分が蒙る不条理な結果は、半分は自分自身でお膳立てしたものといってよかったが、グロスターの蒙った不幸は、自分の庶子にだまされた結果とはいえ、基本的には身に覚えのない迫害なのである。 グロスターは、わが身の不幸を呪い、その不幸をまぬがれるために、自殺を考える。彼は自殺することによって、世界の秩序がどこかおかしいと訴え、自分の死はその秩序のゆがみを告発するのだと、訴えたいのだ。 これはコットがいうように、絶対者と云うものがあることを前提とした行為だ。だが世界に若し絶対者が存在しないとすれば、どうなるだろう。グロスターの死は、何の意味も持たない犬死ということになる。 この犬死を巡って、迫害されて乞食の狂人になった息子と、両目をえぐり取られて心の目を持つに至った盲人の父親とが、凄惨なやりとりをするのだ。 第4幕の冒頭で、狂人を装うエドガーの前に盲目の父グロスターが現れる。父親の変わり果てた姿を見て、息子のエドガーは絶句する。 エドガー:(傍白)おお、今がどん底などと誰が言える そのまたどん底もあるのだ 老人:哀れな気違だな エドガー:(傍白)もっと落ちるかもしれぬ これがどん底などといっているうちは ほんとのどん底ではないのだ 老人:どこに行くのだ? グロスター:乞食か? 老人:気違であり乞食でもあります EDGAR:[Aside] O gods! Who is't can say 'I am at the worst'? I am worse than e'er I was. Old Man:'Tis poor mad Tom. EDGAR:[Aside] And worse I may be yet: the worst is not So long as we can say 'This is the worst.' Old Man:Fellow, where goest? GLOUCESTER:Is it a beggar-man? Old Man:Madman and beggar too.(4.1) 狂人でもあり、かつ乞食でもあるエドガーに、盲人のグロスターがドーヴァーまでの案内を頼む。グロスターはそこで崖から飛び降りて自殺するつもりなのだ。自殺することで、自分が蒙った不条理を、神に訴えるつもりなのだ。 老人:なんと、あやつは狂っておりますぞ グロスター:今の世の中では 気違が盲人の案内をするのじゃ Old Man:Alack, sir, he is mad. GLOUCESTER:'Tis the times' plague, when madmen lead the blind.(4.1) 第4幕の第6場はドーヴァーの荒涼とした海岸ということになっている。だが彼らは実際の海岸ではなく、ただの平坦な地面を歩いている。エドガーはそこがドーヴァーの切り立った崖だとグロスターに思い込ませたうえで、崖の上から飛び降りる仕草を、狂言芝居に仕込むのだ。 グロスター:小高い丘のてっぺんまであとどのくらいじゃ エドガー:今登っているところです 険しい道を グロスター:だが道は平なように思えるが エドガー:いや険しい道です ほら海の音が聞こえるでしょう? GLOUCESTER:When shall we come to the top of that same hill? EDGAR:You do climb up it now: look, how we labour. GLOUCESTER:Methinks the ground is even. EDGAR:Horrible steep. Hark, do you hear the sea?(4.6) この場面は、パントマイムとして演じられる。観客の目にとっては舞台には何も見えない。実際そこはドーヴァーの崖というわけではない。しかしグロスターにとっては、そこは切り立った崖でなければならない。息子のエドガーもそこを崖のように見せかけなければならない。 だからエドガーは平坦な地面を歩きながら、あたかも坂道を登っているような仕草をする。グロスターも自分が登り坂を歩いて、高い崖のてっぺんに向かっているのだと自分を納得させる。それを見ている観客も、グロスターはやはり崖に向かっているのだと、自分を納得させる。 こうしてエドガーに導かれて、グロスターは崖の上から身をひるがえす。ところが死ぬはずの自分がまだ生きているらしいことに、グロスターは愕然とするのだ。 グロスター:わしはもう落ちたのか? エドガー:あの白亜の崖のてっぺんからです 見上げてごらんなさい さえずりわたるひばりの声も 遠すぎてよく聞こえない さあごらんなさい グロスター:見たくても目が見えんのじゃ 不幸な人間には死ぬこともままならぬのか 自殺することには慰めがあった それによって暴君の怒りをたぶらかし その高慢を打ち砕いたものだった GLOUCESTER:But have I fall'n, or no? EDGAR:From the dread summit of this chalky bourn. Look up a-height; the shrill-gorged lark so far Cannot be seen or heard: do but look up. GLOUCESTER:Alack, I have no eyes. Is wretchedness deprived that benefit, To end itself by death? 'Twas yet some comfort, When misery could beguile the tyrant's rage, And frustrate his proud will.(4.6) グロスターの自殺をめぐるこの場面は、「リア王」という劇の中でも最も迫力ある場面だ。観客は俳優のパントマイムを通じて、何もない空間としての舞台の上に、壮絶なドラマが展開するさまを見る。実際の目ではなく、心の目で見るのだ。 コットがいうように、「シェイクスピアが描くドーヴァーの断崖は、存在すると同時に存在しないものである。それはいつも待ち受けている深遠なのだ。人間が身を投げることができるこういう深淵はどこにでもある。」(蜂谷昭雄、喜志哲雄訳) |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2011 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |