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心に刺さったイガ These burs are in my heart:シェイクスピアの喜劇「お気に召すまま」


「お気に召すまま」は即妙な会話が持ち味の劇である。その会話を洒落たものにしているのが、女主人公のロザリンドだ。彼女が次々と繰り出す言葉の綾が劇に色を添え、また身体で演ずる行動以上に劇に迫力をもたらす。

ロザリンドは劇の中では大部分男性の姿に変装している。したがって彼女の言葉遣いは男性を意識したものになっているのだが、衣装の裏には女性としての自分がある。彼女の発する言葉は、女性としての自意識を男性の言葉でつつんだものなのだ。そこにおのづから両性具有的なあいまいさが生まれる。このあいまいさが、劇に不思議な緊張感をもたらす。

ロザリンドには影法師のように付き従うパートナーがいる。従妹のシーリアだ。シーリアはロザリンドに比べると、劇の中では精彩にかけるといってよいのだが、しかしその存在は不可欠に受け取られる。それは男性に扮したロザリンドの女性的な面を彼女が補完しているからだろう。ロザリンドとシーリアは二人合わせてひとつの人格を構成しているかのように、シェイクスピアは意識して描いている。

ロザリンドは弟によって追放された老公爵の娘である。一方シーリアは老公爵を追放した現公爵の娘だ。だから彼女らの関係にはドラマティックな要素が含まれているはずなのだが、劇の中ではその要素は表面化しない。第一老公爵と現公爵の対立自体が表面化せずに、最後にはあいまいな形で和解することになっている。

シェイクスピアはこの劇に組み込まれているドラマティックな要素を切り捨ててまで、会話劇としての面白さにこだわったのだといえよう。

劇はまず、やがて恋のやりとりをすることになるオーランドとロザリンドを登場させることから始まる。ロザリンドは当然シーリアとセットで出てくる。彼女らは早速意味深長な会話をして、これから始まる劇の雰囲気を先取りする。

  シーリア:さああのお人よしの運命の女神をあざ笑ってやりましょうよ
   もう運命の糸をつむぐことができなくなるように
   そうしたらこれからは彼女の贈り物も公平になるでしょうから
  ロザリンド:できたらそうしたいわ 
   だってあの人の贈り物の仕方はちぐはぐですものね
  シーリア:ほんとにそうよ
   姿のきれいな女はめったに貞節ではないし
   貞節な女はだいたいがブスなんだから
  ロザリンド:あらそれは運命の仕業ではなく自然の取り計らいというものよ
   運命はこの世の運不運を左右するけど
   生まれつきの美貌は自然の賜物よ(第一幕第二場)
  CELIA:Let us sit and mock the good housewife Fortune from
   her wheel, that her gifts may henceforth be bestowed equally.
  ROSALIND:I would we could do so, for her benefits are
   mightily misplaced, and the bountiful blind woman
   doth most mistake in her gifts to women.
  CELIA:'Tis true; for those that she makes fair she scarce
   makes honest, and those that she makes honest she
   makes very ill-favouredly.
  ROSALIND:Nay, now thou goest from Fortune's office to
   Nature's: Fortune reigns in gifts of the world,
   not in the lineaments of Nature.

この会話の中で、彼女らは若い女性によくあるようなとりとめもない話をしているように受け取れる。それはおもに女性の美貌と貞操を話題にしたものだ。それらを彼女らは、運命の女神や自然の摂理にこじつけて解釈しようとする。

この部分を注意して読むと、ふたりの特徴がひっそりと盛られていることがわかる。シーリアのほうがどちらかというとペシミスティックなのに対し、ロザリンドのほうは楽天的だ。というのも、ロザリンドは背が高く色白で誰でもあこがれるような美貌の持ち主だ。その美貌は男に扮してもなお失われない、羊飼いの娘フィービーが夢中になるのも無理がないほどなのだ。

これに対してシーリアのほうは背が低くて色黒の、どちらかというとあまり美しくない女性として描かれている。「真夏の夜の夢」に出てくるハーミアを思わせる。そのハーミアは背の低さや色黒なところにコンプレックスをもっていた。シーリアもまた同じようなコンプレックスをもっていることを、この会話は暗示している。

そんな二人の前に、オーランドが現れる。オーランドは父親が死んだあと兄によって粗末に扱われまともな教育も受けさせてもらえないことに不満を抱いている。孤児になったような気持ちなのだ。その点父親を追放されて、その追放者の手元にとどめ置かれ、なかば捕虜のような境遇に陥っているシーリアと似た運命の持ち主だ。

オーランドは公爵の催した相撲大会に出場し、大男と勝負する。どんな男でも赤子をひねるようにつぶしてしまう恐ろしい相手だ。その大男をオーランドはいとも簡単に倒してしまう。

そのことが二つの結果をもたらす。オーランドの強さを恐れた公爵がその殺害を図ろうとし、オーランドが森の中に逃亡することがひとつ、もうひとつはロザリンドが彼の強さに接して一目ぼれしてしまうことだ。

その一目ぼれの場面は次のような会話によって語られている。

  シーリア:あなたのお父さんのことを考えてらっしゃるの
  ロザリンド:いいえわたしの子どものお父さんになる人のことなの
   ああ この日常の世界のなんと茨に満ちていること!
  シーリア:茨じゃなくただのイガよ
   お祭りの見世物の最中に投げられたのよ
   ちゃんとした道を歩かないとそんな目にあうの
  ロザリンド:服についたイガなら落とせるけど
   このイガは心に刺さったイガなの(第一幕第三場)
  CELIA:But is all this for your father?
  ROSALIND:No, some of it is for my child's father. O, how
   full of briers is this working-day world!
  CELIA:They are but burs, cousin, thrown upon thee in
   holiday foolery: if we walk not in the trodden
   paths our very petticoats will catch them.
  ROSALIND:I could shake them off my coat: these burs are in my heart.

ロザリンドはさっそくオーランドの子どもをもうけたいと思いつめるほど、彼に首っ丈になってしまったのだ。シェイクスピア劇、特に喜劇においては、男女の結びつつきは電光石火のように始まるから、これはそう珍しいことではない。だが男を愛するという意思表示を、男の子をもうけたいという形であらわすとは、いかにもシェイクスピアらしい。

シーリアの父親たる公爵は、オーランドとともにロザリンドをも憎むようになり、彼女を追放することにする。娘のシーリアは追放されるロザリンドに付き従ってどこまでも一緒にいきたいと願う。

でもどこへ逃げたらいいのか。思い悩むロザリンドにシーリアはいう。

  シーリア:おじさんを探しにアーデンの森へ行きましょう
  ロザリンド:ああ なんて危険なことでしょう
   わたしたちのような乙女が そんな遠くへ旅するなんて
   盗賊は黄金より乙女の操を狙うものだわ(第一幕第三場)
  CELIA:To seek my uncle in the forest of Arden.
  ROSALIND:Alas, what danger will it be to us,
   Maids as we are, to travel forth so far!
   Beauty provoketh thieves sooner than gold.

アーデンの森は追放された老公爵がいるところだ。彼女らはそこに逃げ込んで老公爵と再会しようと決意する。森の中でなら宮廷の偽善と悪意から逃れて平和に暮らせるかもしれない。

こうして二人は手を携えてアーデンの森へと出かける。だがその途中にはどんな危険が待ち受けているかもしれない。盗賊に襲われて処女を奪われる恐れもある。そこでロザリンドが男装して盗賊の目をくらまし、シーリアを守ってやろうということにする。

以上見てきたとおり、この劇は出だしの部分では宮廷を舞台に、ついで森を舞台にして展開する。宮廷は権力闘争の渦巻くおどろおどろした世界だ。これに対して森は平安をもたらしてくれるべき安らぎの世界だ。

おいおい明らかになるが、宮廷に代表される人為的な世界と森に代表される自然の世界との対立が、この劇の大きなモチーフとなっているのである。そしてこの二つを媒介するものとして道化のタッチストーンが登場する。



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