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踊る言葉 Malapropism:シェイクスピアの喜劇「から騒ぎ」


「から騒ぎ」の中ではベネディックと並んで道化的な人物がもうひとり出てくる。警察官のドグベリーだ。警察官に犬の名を与えたのはシェイクスピア一流の才気からだろう。だがこの男は単純な道化ではない。劇の中で重要な役割を果たす上に、言葉の誤用 Malapropism を通じて複雑な笑いをもたらす。

ドグベリーの連発する Malapropism は英語の構造的な特徴をからかったものだといえる。英語の中でラテン語由来の言葉は、語幹を接頭辞と組み合わせることからなっている。漢字が偏と旁からなっているようなものだ。シェイクスピアはそうした言葉に着目した上、接頭辞を入れ替えることによって、本来の意味から逸脱した意味を言葉に与え、そこから笑いを呼び起こす。

たとえば Suspicious というべきところを、 Auspicious といったり、 Assembly というべきところを Dissembly という類だ。これは現代の日本人の中に「だんかいのせだい」というべきところを「だんこんのせだい」と間違えていう言う人がいるのと、同じような言葉の誤用だ。

ドグベリーは劇に登場してから退場するまで、一貫して Malapropism から抜け出せないでいる。当然聞いているほうは、せいぜい笑ってみたりするのがせきのやまだが、時にはいらいらさせられることもある。

というのもドグベリーは、ヒーローに対するドン・ジョンの卑劣な陰謀を聞き知り、それをレオナートやドン・ペドロなどのキーパーソンに伝えるべき立場にあるにもかかわらず、言葉の誤用を連発して彼らをいらいらさせ、肝心なことをなかなか伝えられないからだ。

以下はドグベリーがレオナートのところに、陰謀の取調べについて報告しにやってきたシーンだ。ドグベリーは配下のヴァージズを伴っている。ヴァージズもドグベリーよりまともとはいえぬが、言葉を誤用するようなことはない。そのヴァージズに向かってドグベリーは言葉遣いを注意するのだ。

  ヴァージズ:さよう 拙者は世の中の年寄り同様正直ものでしてな
   そりゃあ拙者より正直でないものに比べれば正直でさあ
  ドグベリー:他人と比較するとくさい匂いが立ち込めるぞ
   ことばを選べ ヴァージズ
  レオナート:そなたたちのいうことは回りくどいぞ
  ドグベリー:閣下がそういうのはごもっとものこと
   だがわしは哀れな大公の官吏ですじゃ
   そこで申し上げたい もしもわしが王と同じように回りくどいとしたら
   そのまわりくどさを閣下に授けたいものです
  VERGES:Yes, I thank God I am as honest as any man living
   that is an old man and no honester than I.
  DOGBERRY:Comparisons are odorous: palabras, neighbour Verges.
  LEONATO:Neighbours, you are tedious.
  DOGBERRY:It pleases your worship to say so, but we are the
   poor duke's officers; but truly, for mine own part,
   if I were as tedious as a king, I could find it in
   my heart to bestow it all of your worship. (第三幕第五場)

これは日本人が尊敬語と謙譲語を取り違えるのによく似ている。ドグベリーは自分の愚かさのおすそ分けを上司たるレオナートにも授けてやろうといっている。レオナートがあきれ返って彼らを相手にしなくなるのは当たり前の勢いだ。

  DOGBERRY:A good old man, sir; he will be talking: as they
   say, when the age is in, the wit is out: God help
   us!
  ドグベリー:この男はもう年寄りでしてな こういいたいのですよ
   「年が寄れば 知恵が離れると」
   いやはや

ドグベリーが when the age is in, the wit is out といったとき、彼は自分で気の利いたことを言ったつもりなのだろう。実際にはこれは当時広く知られていたことわざ When ale is in, wit is out をひねった言い方である。

ドグベリーは回り道をして、いよいよ話の核心に迫る。そこでも彼は言葉の誤用をせずにはすまない。

  ドグベリー:ひとこと申し上げたい 閣下
   わしの配下の見張りがめでたい輩をとらえました
   そこで今朝このものどもを閣下の前で尋問したいと存ずるのです(第三幕第五場)
  DOGBERRY:One word, sir: our watch, sir, have indeed
   comprehended two auspicious persons, and we would
   have them this morning examined before your worship.

めでたい輩 auspicious persons は本来なら、疑わしいsuspicious 輩といわねばならないところだ。これにはさすがのレオナートも腹を立ててしまう。

ドグベリーは第四幕でも手下や被疑者を伴って出てくる。ここでも彼は相変わらず、ちんぷんかんぷんなことをいい続ける。

  ドグベリー:一同バラバラに集まり去ったかな(第四幕第二場)
  DOGBERRY:Is our whole dissembly appeared?

集合することは Assembly というが、それを Dissembly といえば解散することを意味してしまう。万事この調子で、ドグベリーのいうことはすべてあべこべの意味を帯びている。

  ドグベリー:悪党め!お前など呪われて永遠の罪業消滅に落とされてしまえ
  DOGBERRY:O villain! thou wilt be condemned into everlasting
   redemption for this.

Redemption とは罪が許されることを意味する言葉だから、ここで使うのは相応しくない。本来なら Condemn とでもいうべきところだ。

大体ドグベリーは、自分自身のことについても、取り返しのつかない認識、というか反認識とでもいうべきものをしてしまう。罪人たちから Ass と罵られたのを、なぜか誤解して、それを自分に対する賛辞だと受け止めてしまうのである。

  ドグベリー:お前はわしの地位を疑おうとしないのか?
   わしの年を疑わないのか?
   だれか書記になって記録してくれないか
   「わしは間抜けだ」と
   諸君 まだ記録されてはいないが たしかにわしは間抜けなのだ
   わしが間抜けだということをいうことを忘れないでほしい
  DOGBERRY:Dost thou not suspect my place? dost thou not
   suspect my years? O that he were here to write me
   down an ass! But, masters, remember that I am an
   ass; though it be not written down, yet forget not
   that I am an ass.

Suspect は本来 Respect というべきところである。だから尊敬しろと要求しているにかかわらず、自分を疑えという結果になってしまう。Ass をなぜ賛辞として受け止めたか、その辺の心理的なメカニズムはわからない。

ともあれ自分の愚かさをこんなふうに吹聴する男は世界中探しても、他には見つからないだろう。



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