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生きるために死ね Come, lady, die to live:から騒ぎ


シェイクスピアの喜劇は必ず結婚によるハッピーエンドで終わる。というより、途中の出来事がどんな展開をたどるにかかわらず、最後に恋人たちが結ばれれば喜劇、結ばれることなく死んだり引き裂かれたりすれば、悲劇となる。かように若い男女の結婚は、喜劇が成立するための必須条件なのだ。結婚が成立することなく終わるようなことがあれば、それは喜劇的な雰囲気をもっていても喜劇とはいわない。単なる笑劇に過ぎない。

シェイクスピア劇にあっては、結婚はすんなりと成就することはない。そこには必ず結婚を妨げるような障害がある。その障害は親の意向であったり、社会的な障壁であったり、悪意ある人物の横槍であったりする。どんな形をとるにせよ、その障害が大きければ大きいほど、喜劇の構造はダイナミックなものとなり、それに比例してハッピーエンドの喜びは大きくなる。

「空騒ぎ」においては、ドン・ジョンの悪意ある企みと、それにだまされて恋人であるヒーローの貞淑を疑うクローディオの思慮の浅さが幸福な結婚を妨げる障害となる。この障害は外的なものというより、恋人の心の中に根を持つだけに、いっそう大きな障害として立ちふさがる。

恋人の一方が相手を侮辱して悲しませるような構図は、恋愛劇としては見苦しくなるのが普通だ。だがシェイクスピアはこの劇の中で、クローデイオにそのような役割をさせた上で、最後にヒーローとめでたく結ばせる。観客はいったん、クローディオの思慮の浅さと、彼がヒーローを侮辱することの不合理さを目の前にするので、こんな男はヒーローの愛に値しないとまで思わされるのだが、シェイクスピアはそれでも、この二人を結婚させることにこだわるのだ。でなければ喜劇にはならないと、知っていたからだろう。

障害の原因を作ったドン・ジョンは、二度にわたって罠を仕掛けている。最初の罠はドン・ペドロとクローディオを反目させることを狙ったものだ。ドン・ペドロは自分のためにヒーローを口説いているとクローディオに信じさせる。そうすることでふたりの結婚を妨害しようとするのだ。だがこのときには疑いはすぐに晴れて、クローディオはヒーローと婚約できた。

二度目の罠は、ヒーローがみだらな女であると、クローディオやドン・ペドロに信じさせることだ。このためドン・ジョンは狂言を仕組んで、ヒーローの替え玉が男と密会する場面をクローディオらに見せることで、彼らをだまそうとする。

ドン・ジョンの思惑通り、ヒーローの貞淑を疑ったクローディオは、こともあろうに結婚式の席上、大勢の参会者の前でヒーローを侮辱する。

  クローディオ:さあレオナート 娘を連れて帰れ
   この腐ったオレンジを友人に贈ろうなどと思うな
   この女の貞淑は見せかけに過ぎぬ
   見よ 娘らしく顔を赤らめているところを!
   いかにもそれらしい見せ掛けで
   狡猾な罪を隠そうとしているのだ!
   たしかにこの赤い血をみれば純粋な貞淑を現す
   証拠であるようには見える 誰しもこの女の外見からは
   彼女が小娘であることを疑わないだろう
   だがそうではないのだ
   この女は甘美なベッドの味を知っている
   顔を赤らめているは慎みではなく恥のしるしなのだ
  CLAUDIO:There, Leonato, take her back again:
   Give not this rotten orange to your friend;
   She's but the sign and semblance of her honour.
   Behold how like a maid she blushes here!
   O, what authority and show of truth
   Can cunning sin cover itself withal!
   Comes not that blood as modest evidence
   To witness simple virtue? Would you not swear,
   All you that see her, that she were a maid,
   By these exterior shows? But she is none:
   She knows the heat of a luxurious bed;
   Her blush is guiltiness, not modesty.(第四幕第一場)

ハレの結婚式の席上、新郎となるべき人からこんなことを言われたのでは、新婦は世界が崩壊したようなショックに打たれるだろう。そのとおりヒーローは驚きのあまり気絶し、その父レオナートは、事態の意味が把握できずにおろおろとするばかり、劇は深刻な雰囲気につつまれる。

普通なら劇はここから向きを変えて、一気に破滅や復讐の方向へ転換してもおかしくない。だがシェイクスピアはそうしなかった。この劇をあくまでも喜劇として成立させるために、恋人たちの誤解を解かせるような仕組みを導入するのだ。その際に大きな働きをするのが、そもそもこの結婚を祝福すべき役割をゆだねられていたフライヤー修道士である。

フライヤー修道士はまだ、ドン・ジョンのたくらみを知ってはいない。だからなぜクローディオがヒーローを侮辱するのか、そのわけも知らないままだ。それでもフライヤー修道士は、この二人の関係が修復されることを信じている。彼は人間のもつ真情に、幸福の鍵を見て取るのだ。

フライヤー修道士は、ヒーローにいったん死んだことにして、クローディオの誤解を解く時間を稼ぎ、結ばれる日を待つように進める。その理屈はある意味で卑屈だといえなくもないが、そうしなければ二人は結ばれないし、この劇も喜劇として成立しない。

  フライアー修道士:自分が持っているものの価値は
   持っている間はとかく気づかぬもの
   失って始めてその価値に気づくものです
   持っている間はそれが当たり前に思えるのです
   クローディオの場合も同じこと
   お嬢さんが自分の言葉に傷ついて死んだと知れば
   お嬢さんの生きていたときの面影が
   改めて目に浮かび
   お嬢さんの愛らしい姿が
   いっそう華やかな装いのもとに
   生きていたときよりもさらに美しく
   クローディオの目に焼きついて見えるでしょう
   クローディオにいささかの真心があれば
   お嬢さんを失ったことを嘆き
   自分が非難したことを後悔するでしょう
   たとえそれが間違っていないと思ったにせよ
   ・・・
   常ならぬ傷には常ならぬ治療が必要
   さあ 生きるために死んだことにするのです(第四幕第一場)
  FRIAR FRANCIS:That what we have we prize not to the worth
   Whiles we enjoy it, but being lack'd and lost,
   Why, then we rack the value, then we find
   The virtue that possession would not show us
   Whiles it was ours. So will it fare with Claudio:
   When he shall hear she died upon his words,
   The idea of her life shall sweetly creep
   Into his study of imagination,
   And every lovely organ of her life
   Shall come apparell'd in more precious habit,
   More moving-delicate and full of life,
   Into the eye and prospect of his soul,
   Than when she lived indeed; then shall he mourn,
   If ever love had interest in his liver,
   And wish he had not so accused her,
   No, though he thought his accusation true.
   ・・・
   For to strange sores strangely they strain the cure.
   Come, lady, die to live

一方ヒーローの周辺にいる人たちは、クローディオによるヒーローへの耐え難い仕打ちが我慢できない。なかでもベアトリスはヒーローの恥をそそぐために、クローディオを殺したいとさえ思う。そこで彼女はベネディックに向かって、自分への愛の証として、クローディオを殺すように命じるのだ。

  ベネディック:なんでも命じてくれ 君のためなら何でもやる
  ベアトリス:クローディオを殺して
  BENEDICK:Come, bid me do any thing for thee.
  BEATRICE:Kill Claudio.

父親のレオナートは、最初は娘の恥を疑って相手のいうことを鵜呑みにするばかりだったが、そのうち娘の無垢を信じるようになる。そうなれば娘に故のない侮辱を浴びせた男が憎くてたまらなくなる。彼は白髪の老人になって、体も思うように動かないほどなのに、娘と自分の名誉のために、クローディオに決闘を申し込む。

  レオナート:いいか クローディオ
   きさまは罪もない娘とわしを辱めたのだぞ
   わしは自分の名誉にかけても
   白髪頭と老いの身に鞭打って
   きさまに決闘を申し入れる(第五幕第一場)
  LEONATO: Know, Claudio, to thy head,
   Thou hast so wrong'd mine innocent child and me
   That I am forced to lay my reverence by
   And, with grey hairs and bruise of many days,
   Do challenge thee to trial of a man.

レオナートやベネディックの怒りに接したドン・ペドロとクローディオは、自分たちの残酷な仕打ちについて、まったく反省する気配を見せない。かえって彼らをあざ笑うだけだ。

  ドン・ペドロ:それにしても男とは不思議なものだ
   胴着やタイツに身を包んでいながら頭の中身は空っぽだ
  クローディオ:そんな男でも猿の目には巨人に写りましょう
   もっともそんな男を直してやれるのは猿のほうでしょうけど
  DON PEDRO:What a pretty thing man is when he goes in his
   doublet and hose and leaves off his wit!
  CLAUDIO:He is then a giant to an ape; but then is an ape a
   doctor to such a man.(第五幕第一場)

事態がここまで来れば、普通なら爆発するところだろう。実際ここで爆発させる筋書きもありえたはずだ。だがその場合には、劇は無論喜劇にはなりえなかったし、だからといって悲劇にもならなかっただろう。せいぜい中途半端な復讐劇で終わったに違いない。

喜劇を喜劇として成立させようとするシェイクスピアの執念が、ここに強く働いているのである。





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