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終わりよければすべてよし(All's well that ends well):シェイクスピアの喜劇


「終わりよければすべてよし(All's well that ends well)」は、結婚の成就がテーマになっているという点で喜劇の範疇に含めることができるが、他の喜劇とは際立って異なる特徴がある。この劇は、結婚を望みながら自分に辛く当たる男にさまざまな手練手管を弄し、ついには男に自分との結婚を承諾させずにおかなくさせる、賢い女の執念を描いたものなのだ。

そんな手練手管を、女自身はしたないことだと思わずにはいられないのだが、とにかく男の心を自分になびかせるための一時的な方便と思えばよい。結婚という結果を首尾よく手に入れられれば、その成就のために用いられた手練手管が多少悪どくても、許されると云うべきだ、こう主人公の女性ヘレンは、自分に向かっても観客に向かってもつぶやくのだ。

  ヘレナ:終わりよければすべてよし 終わりこそが肝心です
   途中はどうあろうとも 終わりに花が咲けばよい
  HELENA:All's well that ends well; still the fine's the crown;
   Whate'er the course, the end is the renown.(4.4)

ヘレンのこの言葉は、彼女が自分自身を鼓舞するために吐く言葉だ。彼女はこの言葉の魔力に助けられるようにして、愛する男を夫にすることに成功するのだ。

この劇は、孤児になった少女が、養育先の家の息子に恋をすることから始まる。少女の胸の内を息子の母親は察してくれるが、肝心の息子の方は何とも思ってくれない。そこで少女は一計を案ずる。フランス王に取り入って、王の力を借りてこの息子との結婚を成就させようというのだ。

少女の計画は成功する。少女は王の命を救ってあげたことの褒美として、王から若者に対して、この少女と結婚するように命じてもらう。ところが命じられた若者は、こんな不細工な女と結婚するなんて、たとえ王様の命令でもできませんと拒絶する。その挙句、王からの報復を恐れて、イタリアに政治亡命してしまう。

なかなか思うように事が運ばないのにとまどった女は、もう一計を弄する。肉弾を以て若者の肉体に突進し、是が非でも結婚を迫ろうというのだ。

若者はイタリアで、ある女に惚れてしまう。女の方はなかなかなびかない。そんな彼女を、ヘレンは自分の恋のために利用する。ヘレンがその女性に化け、ベッドの中で若者を迎えるという小細工を打つのだ。

若者はいそいそとして、深夜に女の部屋に忍び込む。ところがその部屋で待っていたのは、目当ての女ダイアナではなく、ヘレンだったわけだ。暗闇に紛れて、若者には相手の顔が良く見えない。お目当てのダイアナのつもりで、ヘレンとめでたくベッドインという次第となる。

こうした知恵を発揮したおかげで、ヘレンは最後には若者との結婚を勝ち取る。終わりが首尾よくおさまって、途中の苦労が尽く報われたというわけである。

この荒筋から読み取れるように、この劇は基本的には女の知恵を取り上げたものだ。女の知恵を扱ったものには、「お気に召すまま」や「ウィンザーの陽気な女房たち」のような例もあるが、それらが開放的であっけらかんとした物語であるのに対して、この劇は女の知恵そのものに焦点を当てている点で、凝縮性が強いものになっている。

そこが喜劇というよりは、サスペンスを感じさせる原動力になっている。この劇が問題劇のひとつに数えられる所以だ。



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