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十二夜 The Twelfth Night :シェイクスピアの喜劇


愛の国イリリア What country is this?:十二夜
十二夜の精神 Excess of it :シェイクスピアの喜劇
フェステ Feste :十二夜
双子の兄妹 that is and is not! :十二夜
道化の歌 Come away, death :十二夜


「十二夜」の副題 What you will は、「お気に召すまま」 As you Like it を連想させる。実際この両者は、題名だけでなく中身もよく似ているのだが、もっとも重要な共通点は、変装の劇、それも少女が少年に扮する劇だという点だ。
「お気に召すまま」では、女主人公のロザリンドが少年に変装する。それはアーデンの森への旅を安全に過ごすことが目的だということになっているが、劇の進行につれて、思いもかけぬ効果が現れるようになり、変装による男女の性転換とそれによってもたらされる混乱が、むしろ劇の主題だと思いたくなるような具合に発展していく。

「十二夜」では、やはり女主人公のヴァイオラが少年に変装する。それは難破して打ち上げられたイリリアという国で、君主の侯爵に仕えるためには、宦官に変装したほうが好都合だと思ったからだ。

なぜ宦官なのかは、ちょっと考えてみればわかる。女が男に扮するわけだから、からだつきから声に至るまで、男として成熟した見せかけをもてない。だから去勢された男としてふるまうのが、自然なのだ。

このように二つの劇とも、女が男に変装する。だがシェイクスピア劇にあってはもともと、女の役も男が演じていたことに注意しなくてはならない。この時代には、シェイクスピアの劇に限らず、俳優はすべて男であったのだ。だから、観客の目には、男が演じている女が、男に変装するというおかしな関係が生じる。

この関係をどう表現したらいいのか。男が女になるということは、性的倒錯のひとつの次元である。その女になった男がさらに男に変装するというのは、もうひとつの次元である。舞台では、この二重の次元を通じて男となった俳優の男に、女を演じ続けている男が求愛するという奇妙な関係が重なることになる。

この劇を喜劇として彩っている恋愛関係は次のような構造になっている。まづ男に変装したヴァイオラに女であるオリヴィアが恋をする。そのオリヴィアをむくつけき男であるオーシーノが恋をする。そしてそのオーシーノを、女でありながら男役を演じているヴァイオラが恋する。こういうわけで、変な三角関係が生じるが、その三角関係は永遠に解決しそうもない悪循環を描いている。

この悪循環は、ヴァイオラが男を演じることをやめて女に戻った時点で始めて解決されるだろう。その時点で、ヴァイオラはオーシーノと結ばれ、オリヴィアはヴァイオラの瓜二つの兄弟であるセバスティアンと結ばれるのだ。

この劇では、セバスティアンの存在は非常に軽い。彼は一人の男としての独立した性格はもたされておらず、あくまでもヴァイオラの兄としての相対的な位置しか付与されていない。だから、ヴァイオラに対するオーシーノの愛も、セバスティアンに対するオリヴィアの愛も、同じ一つの人格を、異なった角度から愛しているのだと、考えられなくもない。

ヴァイオラ、オリヴィア、オーシーノの間の三角関係は、ソネット集の中で展開されている、シェイクスピア、青年、ダークレディの間の三角関係を想起させる。シェイクスピアをオーシーノに、青年をヴァイオラに、ダークレディをオリヴィアに、それぞれなぞらえて、読んでみるがいい。

ソネット集の中で、シェイクスピアは青年に対する同性愛を歌っているが、その同性愛の対象となった青年とは、両性具有的な存在として描かれていた。青年のなかの少年的・女性的な部分にシェイクスピアは引かれ、男性的な部分にダークレディは引かれた、そう考えることができる。その両性具有性こそが、この劇の中では、ヴァイオラのうちに体現されているわけである。

こんなところからこの劇は、シェイクスピアの同性愛的感性が色濃く反映されていると考えることができる。その同性愛は別の形でも表現されている。ヴァイオラの兄セバスティアンに対するアントーニオの愛だ。セバスティアンの存在が薄いことについては先述したとおりだが、彼が俄然存在意義を主張するのは、アントーニオとの関係が問題になる場面なのである。

アントーニオは遭難して海岸に打ち上げられたセバスティアンを救って、イリリア中彼と行動を共にする。初めて見たときからセバスティアンを愛してしまったのだ。そのアントーニオはひげ面のむくつけき男だろう、船乗りなのだからそうとしてしかありえない、それに対してセバスティアンのほうは、のちにオリヴィアからヴァイオラとまちがえられるほどだから、なよなよとした女性的な印象を引きずっているに違いない。そんなセバスティアンをアントーニオは愛してしまうのだが、それもまた、ソネット集の中で青年への同性愛を歌ったシェイクスピアを、彷彿させるものである。

こんなわけでこの劇には、両性具有と同性愛とが、複雑な形で組み込まれているといえなくもない。それはもしかして、この劇を書いた時期にもまだ余韻として残っていたシェイクスピア自身の同性愛の体験が組み込まれているせいなのかもしれない。





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