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祝祭の中のロメオとジュリエット


ロメオとジュリエットが単純な恋愛劇ではなくて、カーニバル的な笑いに満ちていることについては、先に述べたとおりだ。それは形の上では祝祭として、精神の面では卑猥な笑いとして現される。

この劇が実質的に、キャピュレット家の仮面舞踏会から始まることは象徴的だ。この舞踏会は家の中の祭りという点で、共同体ぐるみのカーニバルの祭りとはレベルが違うが、仮面をかぶることによって、参加者に無礼講のような自由が保障されるという点で、反秩序の象徴としての、カーニバルの祭りに通じるものを持っている。

この仮面舞踏会の中で、ロメオはジュリエットに出会い、二人は一瞬にして恋に陥る。不思議に思えるのは、ロメオたちは仮面をかぶっているはずなのに、二人の恋人には互いの顔が見えているように描かれていることである。それ以上に不可解なのは、ロメオにはロザリンドという当面の思い人がいるにもかかわらず、ジュリエットを見た瞬間に、彼女に釘付けになってしまうことだ。

何故二人はかくも簡単に恋のとりこになってしまったのか。説明らしきものは一切ない、まるで彼らは人形師に操られた操り人形のようであり、人間の心理など介在しないようなのだ。

この点、ほぼ同時期に書かれた「真夏の夜の夢」の若い恋人たちとよく似ている。真夏の夜の夢では、若い恋人たちは妖精の魔術にかかってしまったゆえに、目覚めて最初に見た異性を恋してしまう。彼らには自発的な意思などなかった。

ロメオとジュリエットの愛も、やはりそのような機械的な印象を与える。彼らが愛し合うのは、自分たちの意思に基づいてではなく、祝祭の雰囲気に呑まれたからだ、祝祭という反日常的な催しが、彼らをそそのかし、互いに愛し合うように仕向けたのだ。彼らは祝祭劇を演じる俳優に過ぎないのだ。どうもこんなふうにいえそうである。

祝祭は劇の終わりに向けて、もう一度セットされる。それはジュリエットとパリスとの結婚を祝うための祝祭のはずであったが、ジュリエットが死んだことで裏返しの祝祭、つまり葬送の祭りに逆転してしまう。

ロメオとジュリエットという劇は、上述した二つの祭を始めと終わりにして、それらに囲まれた時空の中で展開する。最初の祝祭が催されてから、葬式が催されるまでの時間は、わずか数日に過ぎない。この数日の間に、ロメオとジュリエットは結婚し、間を引き裂かれ、ついに死んでいくのである。

他方の卑猥な笑いということについていえば、そのような笑いはこの劇のいたるところで出てくる。他の劇のように明確に道化の役割を与えられたキャラクターは出てこないが、ジュリエットの乳母がところどころで放つ卑猥なジョークや、ロメオの友人たちのジョークなどが、道化の笑いを想起させる。また舞踏会の給仕人や結婚式の楽師たちも、祝祭の華やかな雰囲気に色を添えるような笑いを巻き起こす。

そんな笑いの中でもっとも印象深いもののひとつは、恋に悩むロメオをからかって、友人のマーキューシオが発する卑猥な言葉だ。

  マーキューシオ:恋が盲目だとしたら 奴の恋は的外れになるはずだ
   いまごろ奴は 割れ目リンゴの木の下にいることだろう
   愛する人も こんな風だったらいいなと思いながら
   小娘たちがくすくす笑いながら口にするという
   そんな割れ目が 彼女の股にも開いてるといいななんて思いながら
   長梨みたいな奴のチンポコとお似合いとはいえぬだろうに(第二幕第一場)
  MERCUTIO:If love be blind, love cannot hit the mark.
   Now will he sit under a medlar tree,
   And wish his mistress were that kind of fruit
   As maids call medlars, when they laugh alone.
   Romeo, that she were, O, that she were
   An open et caetera, thou a poperin pear!

Medlar とはリンゴに似た果実で、大きな穴が開いているように見えるところから女性器を、Poperin Pear は細長い形から男性器をそれぞれ連想させる。男女の恋とは、このように性器同士の結合に解消され、卑猥な笑いの種になるのだ。

ところで普通の男女の間柄なら、男が女の性器の状態を心配することなど、まずないだろう。だがジュリエットはまだ13歳、成熟した女とはいえない。そんな未熟な女を相手に性交を夢想する男はよほどのスケベといわねばならない。ところが成熟した男としてのロメオは子供同然のジュリエットに対していかがわしい性欲を抱いている。そんな雰囲気をシェイクスピアは、マーキューシオの口を借りて披露しているとも受け取れる。

これに限らず、この劇には卑猥で反道徳的な言葉が次々と出てくる。読者はまるでロマンスを読んでいるのではなく、エログロナンセンス劇を読んでいるような気分にさせられる。

だが我々現代人にとって、ただのエログロに映るものも、シェイクスピアの時代のイギリス人たちにとっては、生きる喜びを謳歌する言葉だったのだ。





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