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真夏の夜の夢 A Midsummer Night's Dream



妖精パック Sweet Puck
ティターニアとロバの頭
愛は盲目Wing'd Cupid painted blind
恋の四重奏
ボトムと三文芝居の仲間たち


シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」 A Midsummer Night's Dream は、長い間ロマンティック・コメディとして、恋人たちの愛を謳歌する祝祭感覚に満ちた劇だと考えられてきた。メンデルスゾーンの音楽が、そうした捉え方に拍車をかけた。これは男女の結びつきをおおらかに歌った、饗宴の舞台なのであり、人々はそれを見ることで、生きる喜びを改めて感じ取ることができるのだと。

ヤン・コットはこうした見方を180度転換させた。これはなるほど饗宴の劇ではあるが、我々現代人が思い浮かべているような、ロマンティックなものではない。むしろ人間の情欲に潜む悪魔的なものを取り出して、愛とは人間の狂気の現われなのだということを主張しているというのだ。饗宴はだから狂気の宴であり、見果てぬ夢なのだと。

ヤン・コットがこの劇を解釈する鍵として着目しているのは、妖精である。この劇ではパックという妖精が重要な役割を果たす。そのパックに命令するオベロンは妖精の王であり、その妻ティターニアは妖精の女王である。そのほかにも奇妙な名前の妖精たちがぞろぞろと出てきて、舞台上を跳ね回る。劇の進行は、この妖精たちによって支配されているのだ。

妖精はポジティヴな面ではかわいらしさを感じさせるが(ロマンティック・コメディとしてこの劇を捉える立場は、その視点を強調している)、ネガティブな面では悪魔としての性格を持っている。シェイクスピアがこの劇で妖精たちに与えている位置づけは、この悪魔としての性格だと、コットはいう。

人間は悪魔たちのたくらみに踊らされ、夢のような狂気の世界に迷い込む。そこで展開されるのは、この世の秩序からの脱線であり、恍惚と一体化した狂気である。そしてその恍惚は性の解放と結びついている。シェイクスピア劇の中で、これはもっともエロテッィクなものだというのだ。

劇の舞台装置をみてみよう。時は真夏の夜、場所は森の中だ。Midsummerは日本語では単に真夏と訳されることが多いが、厳密には夏至をさす。夏至は古来イギリスの文化的伝統の中では、豊穣の祝祭が行われるときである。人々は夏至の夜に森の中に集まり、豊穣のシンボルとしての生殖の豊かさを祝うのだ。それがエロティックなものになるのは必然というものだ。

森は自然を象徴している。人々は森の中に集まることで、日常の秩序から離れ、異次元の空間に身を移すことができる。異次元の空間にあっては、これまで常識であったものが非常識になり、正義であったものが悪となり、聖なるものが貶められ、その逆も起こる。つまり日常世界の秩序が無化されるのだ。この祝祭を通じて、人々は生と再生を追体験し、生まれ変わった気持ちで命の更新されるのを確信できる。

こうしてみれば、この劇は中世からルネサンスにかけてイギリス文化の基層に存在していたカーニバルや悪魔劇の伝統にたったものだということが見えてくる。真夏の夜の夢という劇は、近代的解釈によるロマンティック・コメディというよりは、中世以来の伝統を受け継いだ悪魔劇とみなすほうがよい。

シェイクスピアはこの悪魔劇を、結婚の祝祭劇の枠組みに使ったのだ。シェイクスピアがこの劇を書いたのは、サザンプトン公爵の母親の結婚式を祝うためだったといわれており、初演されたのはその邸宅の中だったとされる。この結婚を祝うにあたり、シェイクスピアはイギリスの伝統的な悪魔劇をとりあげ、そこにエロティックな主題を盛り込むことで、成熟した女性の性的情念に花を添えたのだろうと思われるのだ。

初演を見に来た人々はすべてサザンプトン公爵の知人たちであり、その殆どはシェイクスピアにも顔なじみだったらしい。その中には不倫の愛にふけるものもいれば、同性愛を噂されたものもいただろう。この劇の中に出てくるエピソードの中には、そうした人たちをあてこすったようなところがあると、コットはいっている。つまり、この劇は一方では当時のイギリスの社交界を反映しており、それを見た人たちは、俳優の演技に自分自身や知人の姿を重ね合わせていたというのだ。

現代の観客にはそんな事情はわからない、ましてイギリスとは文化的な背景が異なる日本人には、この劇が中世以来の伝統を引きずっているとは思いもよらない。そこでとかくロマンティック・コメディとして、軽い気持ちでみてしまう。だがそれではこの劇の魅力を十分味わうことにはならない。

少なくともこの劇が、人間の性的欲望を表面に押し出したものであり、したがってエロティックなものだという感覚を持つ必要はあろう。演出者にその視点がないと、たんなるラブ・コメディに終わってしまう。なぜパックが舞台上をかけずりまわり、なぜティターニアがロバの頭に恋をするのか、肝心なそこのところが見えてこない。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2009
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