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語り部としてのウワサ Rumour


ヘンリー四世第二部の冒頭には、幕開けに先駆けて、ウワサと称する語り部が登場する。ウワサは舌のイメージを一面に撒き散らした衣装をつけている。そして自分の舌を用いて観客に語りかける。これから始まる劇がどんな色彩のものなのか、あらかじめ観客にわかってもらおうというのだ。能の間狂言が劇の開始に先立って前口上を述べるのによく似ている。

もっとも、シェイクスピア劇には、独立したプロローグとしてではないが、それと同じような役割を果たす仕掛けはほかにもある。たとえばリチャード三世が劇の冒頭で行う独白だ。それはリチャードの野心を滔々と語るものであるが、劇はその野心の内容に沿って、その実現の過程として進んでいくから、プロローグと同様の役割を果たしている。またマクベスの冒頭で三人の魔女たちが発する奇妙な予言も、同様の効果を持たされている。観客はそれを聞くことで、劇全体の雰囲気を先取りして感じ取ることができる。

ヘンリー四世第二部におけるプロローグは、劇全体を先取りして前口上を述べているものではない。あくまで直後に始まる劇の内容を理解しやすいようにと、加えられたものだ。したがって第一幕への序曲という意味合いにとどまっている。それでも観客は、このプロローグがあるおかげで、これから始まる劇に対して、一定の心構えをすることができる。

  ウワサ;耳をかっぽじって良く聞かれるがよい
   ウワサこと この拙者が大声で話すことを
   拙者は東方から西方までをくまなく
   風を馬に仕立てて駆け回り
   この地球上で起きたあらゆることを伝えるのじゃ
   拙者の舌から次々と出てくるのは悪口雑言
   拙者はそれをあらゆる言葉に翻訳し
   根も葉もないことを人間たちの耳に吹き込むのじゃ
   拙者が平和について語っているその影では
   ひそかな敵意が世界を蝕んでいるというわけ
   いったいウワサ以外に つまり拙者を差し置いて
   誰が 戦争が避けられぬなどと人々に吹き込んで
   それへ向けて準備に駆り立てながら
   実はそれは偽りで何事もなかったなどと
   そんなことを平気でしでかすじゃろうか?
   ウワサとは疑心暗鬼とひがみ根性が吹き鳴らす笛じゃ
   そいつはいとも簡単に吹くことができるので
   あの数え切れぬ頭を持ったのろまな怪物
   支離滅裂に右往左往する大衆でさえも
   吹き散らすことができるのじゃ
  RUMOUR;Open your ears; for which of you will stop
   The vent of hearing when loud Rumour speaks?
   I, from the orient to the drooping west,
   Making the wind my post-horse, still unfold
   The acts commenced on this ball of earth:
   Upon my tongues continual slanders ride,
   The which in every language I pronounce,
   Stuffing the ears of men with false reports.
   I speak of peace, while covert enmity
   Under the smile of safety wounds the world:
   And who but Rumour, who but only I,
   Make fearful musters and prepared defence,
   Whiles the big year, swoln with some other grief,
   Is thought with child by the stern tyrant war,
   And no such matter? Rumour is a pipe
   Blown by surmises, jealousies, conjectures
   And of so easy and so plain a stop
   That the blunt monster with uncounted heads,
   The still-discordant wavering multitude,
   Can play upon it.

観客は舌を一面にあしらった衣装をみて、まず度肝を抜かされ、次に生きた舌から出てくる言葉を聴いて、なるほどと思わせられる。この世の出来事には何一つ真実なものはない、その殆どは根拠の薄い判断、つまりウワサと同じようなものをもとに進められていく。そう感じたであろう。

それはともかく、プロローグがドラマトゥルギーの上で持つ意義は大きい。プロローグは劇の外側から、第三者の目をもって、劇の流れとその背後の意味合いを訴えるものだ。観客はその言葉を聴くことによって、登場人物たちとは違う次元に自分を置くことができる。役者の苦悩や怒り、悲しみなどを、ひとつ高い次元で受け止めることができる。

劇には、観客に役者への感情移入をもたらすようなタイプのものもある。そうしたタイプの劇では、観客は役者の演技に溶け込み、役者と同じ次元で悲しんだり苦しんだり怒ったりする。通俗的な映画などは、こうした効果によって成り立っているといえる。

だが観客に第三者としての目を与え、観客に対して、高い次元から劇の意味を理解させるといったやり方もある。歴史劇のようなものにおいては、こうしたやり方のほうが効果を発揮しやすい。シェイクスピアはそれを肌で感じていたからこそ、この劇にあえて、こうした仕掛けを持ち込んだのだろう。





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