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ヤン・コットのハムレット解釈


「ハムレット」という劇がその本性上さまざまな解釈を許容するものであり、その大きな理由のひとつがこの劇の異常な長さにあることを指摘したのは、ポーランドのシェイクスピア研究家ヤン・コットである。
「ハムレット」は演出家にとってはテクストどおりに演じようがない劇である。だからこそ演出家や俳優たちにとっては大きな誘惑を感じる作品なのだ。それはさまざまな演出を許容する。そのなかで理想のハムレットとは、「シェイクスピアの精神に最も忠実でありながら、同時に最も現代的なものになるだろう。」(蜂谷忠雄、喜志哲雄訳、以下同じ)ヤン・コットはまづこのようにいう。

「ハムレットにはいくつもの問題がある。政治も出てくれば暴力と道徳との対立も現れる。理論と実践の意味の一義性をめぐる議論もあれば、人生の究極の目的及び意味についての議論もある。これは愛の悲劇であると同時に家庭悲劇でもある。国家的な、哲学的な、あるいは終末論的な、あるいはまた形而上学的な側面もある。そこには望むものは何でもある。深遠な心理分析も、血なまぐさい物語も、決闘も、大量殺人もある。そこから何を選ぶかは我々の自由だ。だが、何のために、どういう理由で選ぶのか、それを我々は自覚していなくてはならない。」

ヤン・コット自身が選んだのは、この劇を徹頭徹尾政治的な劇としてみる立場だった。ソ連共産党第20回大会後の数週間後クラカウで上演されたハムレットを見て、ヤン・コットはそこに政治劇としてのハムレットのすさまじい迫力を感じ取り、ハムレットを政治的な犯罪の劇として捉えなおしたのだった。たとえそのために、ほかの解釈によるハムレットが消えてしまっても残念だとは思わないとまで、いっている。

ハムレットの舞台となったエルシノアでは、あらゆるものが恐怖に蝕まれている。そこに支配しているのは政治的な意図だ。この意図にしたがって、すべての登場人物たちが見えない眼によって監視されている。ハムレットもそしてオフェリアもこの見えない眼を恐れて、愛をストレートに表現できない。

ハムレットがオフェリアに投げ与える「尼寺に行け」という言葉は象徴的だ。この世界では誰もが監視されていて、人間的な生き方はできない、愛情が入り込む余地がないほど、政治の暴力的な意図が貫徹しているのだ。だから身の安全を保つためには尼寺に入るしかない。

ハムレットの母親の王妃は、「情熱と殺人と沈黙とを通ってきている。彼女はあらゆることを自分の胸のうちにおさめておかねばならなかった。彼女のうわべの落ち着きの下には、火山が潜んでいる。」

人殺しの叔父がハムレットを始終監視しながら、すぐには彼を殺そうとしないのは、母親である王妃への配慮からだ。だが時が熟せば体よく追っ払って殺そうとする。

オフェリアの父親ポローニアスは王であるクローディアスの意向を受けて、ハムレットのほかに自分の子どもたちをも監視する。彼は監視社会の権化のような人物だ。そしてハムレットの動向を監視している最中、誤解がもとでハムレットに刺殺されてしまう。

登場人物の誰も彼もが互いに監視しあい、語ることといえば政治のことばかり、これは一種の狂気というほかはない、こうヤン・コットはいうのだ。

シェイクスピア自身がこの劇の政治性に自覚的だったことは疑いがないといえる。シェイクスピアがこの劇を書いた直前にはエセックス公の反乱が起きている。そのさいシェイクスピアも宮廷に出入りするものとしてこの反乱に何らかのかかわりをもち、そのおかげで恐ろしい経験をした可能性がある。そのときの恐ろしい雰囲気が、この劇の中に影を落としていることは、十分に想像できることだ。

ヤン・コットもまた、共産主義体制下のポーランドに生きて、時に政治的な危機に見舞われたことがあった。真夜中に寝ているところを秘密警察に踏み込まれ、危うい眼にあったこともあったらしい。そうした体験が、ハムレットという劇を、政治的な目でみる素地を育んだのかもしれない。





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