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アキレスとヘクトル:シェイクスピアの戯曲「トロイラスとクレシダ」


ホメロスの「イリアス」をはじめギリシャの英雄物語では、アキレスは常にギリシャの英雄として描かれてきた。彼は人間でありながら、神のごとき能力を持ち、トロイの戦士たちを次々と倒して、ギリシャの勝利に大きな貢献をする。

ところがシェイクスピアはアキレスをマイナスイメージに塗りつぶした。

アキレスはまず第一に男色家である。彼は男色相手のパトロクロスといつもいちゃついており、テントの中で英雄の物まねをしたり、ダジャレをいって楽しんだりしている。一方でめっぽう喧嘩が強く、自分の腕力を頼んで尊大な振る舞いをする男として描かれている。

ギリシャを代表して敵の大将ヘクトルと渡り合えるのはアキレスしかいないと、ギリシャ中の誰もが知っている。だが彼にそんな役割を果たさせたら、ますます自分の力に酔いしれて、横柄な性格を助長するだけだろう。だからちょっとした試練を与えてやろうと、ユリシーズが画策する。ユリシーズはいつでも、賢者として優れた意見をいうのだ。

劇の最後でヘクトルを倒すことになるのは、やはりアキレスだった。だがアキレスは正面から正々堂々と戦ったわけではなく、奇策を弄してだまし討ちのようなことをするのだ。

アキレスに殺されることになったヘクトルの方は、トロイ方の英雄であるのみならず、運命を達観した賢者としても描かれている。彼はユリシーズと並んで、知恵のある人物として描かれているのだ。

ヘクトルはこの戦争がヘレンという女の取り合いから始まったということをよく知っている。だからトロイがヘレンをギリシャに返せば戦争をやめさせることができることも知っている。そかしそう知っていても、彼には戦争がやめられない理由もわかっている。

この戦争は今や、ヘレンという女のことを超えて、ギリシャとトロイの大義のしのぎ合いになっているのだ。その大義のためにトロイは多くの武将を失った。いまさら大義を捨ててまで戦争をやめるわけにはいかないのだ。

戦争の行方については、トロイが不利なことは彼には十分わかっていた。いずれトロイはギリシャの足下にひれ伏すであろう。

この劇にもし悲劇的な要素が認められるとしたら、それはヘクトルの死をおいてほかにはないだろう。彼は巨大な運命の必然に呑み込まれるようにして、卑怯で臆病な男アキレスによって殺されてしまうのだ。



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