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アントニーとクレオパトラ:シェイクスピアのローマ史劇



シェイクスピアの悲劇「アントニーとクレオパトラ」は、ローマ史に題材をとった壮大な歴史劇だ。それは時間的には10年以上をカバーし、空間的にはローマ人にとっての世界全体を舞台としている。そこに40人もの登場人物が、少なくとも220回以上の出入りを繰り返し、舞台は40回も空になる。劇の壮大さが通常の舞台の枠と進行形式に収まらないのだ。

劇は古代ローマが民主制から帝政へ移行していく最終段階を描いている。そもそも皇帝たらんと野心を燃やしたシーザーをブルータスが倒し、そのブルータスをアントニーが倒した後、ローマの政治はシーザーの養子小シーザー(オクタヴィアス)、レピダス、アントニーの三人による三頭政治の形をとっていた。だがこの三頭政治は長くは続かなかった。まずレピダスが排除され、そのあとは小シーザーとアントニーが直接対立しあう構図になる。どちらが勝つにしても、勝った方がローマを単独で統治するようになるだろう。

このように歴史は民主制から帝政へと向かって、圧倒的な動きに駆られている。もはや後戻りすることはできない。小シーザーとアントニーが両立することはもはや考えられない。どちらかが相手を倒さねばならない。

勝者が小シーザーたるオクタヴィアスであることは、歴史的な事実として誰もが知っている。シェイクスピア時代の人々にとっても、小シーザーは歴史の必然性を体現した人物であり、彼がアントニーを倒して皇帝になったことは、正義にかなったことだったと認識されていた。

アントニーはそうした歴史の必然に逆らってオクタヴィウスに敵対した愚か者だった。しかも彼は、エジプトの女王クレオパトラの色香に迷ったうえ、アクティウムの海戦に際しては、クレオパトラの後を追って戦線を離脱した。こんな愚かな男だから、敗北するのは当然のことなのだ。

こうした見方が勝者の側に立ったこじつけであることは見え透いている。だがそのこじつけが真実らしく見えるのは、それが歴史の流れに沿っているからだ。敗者の側には、どんなに道理があったとしても、真実が残される余地はない。敗者はあくまでも敗者であり、その限りで歴史的な意義においては、無に等しいのだ。

だが本当にそれでよいのだろうか。歴史上の出来事をそんなに単純に片づけて、人類は果して未来への道筋を過つことがないのだろうか。シェイクスピアはこう自問したに違いない。

なぜならこの悲劇におけるアントニーとオクタヴィアの描き方は、そう単純ではないからだ。アントニーはたしかに愚かな面も持っていたが、英雄的な男らしさも併せ持っていた。男らしさという点では、アントニーの方がシーザーよりはるかに男らしく描かれている。

それにも拘わらず、アントニーはオクタヴィアスに破れてしまった。それには確かに歴史の必然が働いているかもしれない。だからといってそれだけで片づけるにはアントニーは偉大過ぎた。

アントニーは偉大であったにかかわらず負けざるを得なかったのだ。その得なかったという必然性の中に、アントニーの人間としての弱さが隠されている。その偶然性としての弱さが彼を敗北という必然性の奈落に突き落とした要因なのではないか。シェイクスピアはどうもそういっているようにも聞こえる。



中年男女の恋:アントニーとクレオパトラ
女の意地:アントニーとクレオパトラ




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