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マクベス夫人(LADY MACBETH)


マクベスが自分一人の意思で、誰の手も借りずにダンカンを殺したとしたら、この劇の構造はそんなに複雑なものにはならなかっただろう。彼は魔女たちの予言を信じて自分が王にとって代わろうとした浅はかな男であり、そのために王を殺した殺人者であり、その罪の報いを受けて殺されざるを得なかった哀れな男であった、ということになるだけだ。

だが実際のマクベスはそんなに単純に動いたわけではなかった。彼は王を殺せという運命の言葉が自分を駆り立てているにかかわらず、なかなか実行ができない優柔不断な男であり、王を殺した後でも、何かに怯えてゐなくてはならない臆病な男であった。

そんな男の背中を押して、運命に従えと励まし、王殺しという犯罪を実行させるのはマクベス夫人である。この夫人の存在が無かったら、マクベスは結局王殺しをしなかったかもしれない。夫人はマクベスにとって運命の命令の執行者なのである。

だがマクベス夫人が冷酷で残忍一点ばりの魔女のような女かというと、ことはそう単純ではない。もしそうであったら、夫人は夫の弱さを補うだけの陰の存在という域を出ず、したがってその劇全体もあまり複雑な様相はとらなかっただろう。

この劇の問題は、主人公のマクベスもその夫人も、二人とも優柔不断で臆病な性格を持っているところからきている。彼らは、王殺しをして自分たちが王座につこうと強い意志を持ちながら、最後までその意思に自信を持つことができないでいるのだ。彼と彼女は自分の行為に対して、常に後ろめたさを感ぜずにはいない。行為そのものだって、逡巡のなかでなされるのだ。

マクベス夫人自身、自分を奮い立たせないでは、夫を奮い立たすことなどできないのである。

  マクベス夫人:さあ、悪魔たちよ
   つま先から頭のてっぺんまで
   わたしを残虐な悪意で満たしておくれ 
   わたしの血を凍らせておくれ
   わたしを女でなくし 女々しい気持ちを追い出しておくれ
   思いやりへの通り道を塞いで
   憐みの感情が決意を鈍らせないようにしておくれ
   その決意が結果をもたらす邪魔をしないでおくれ
   殺し屋の手下たちよ わたしの乳房の中にもぐり込み
   乳を胆汁にかえておくれ 
  LADY MACBETH:Come, you spirits
   And fill me from the crown to the toe top-full
   Of direst cruelty! make thick my blood;
   That tend on mortal thoughts, unsex me here,
   Stop up the access and passage to remorse,
   That no compunctious visitings of nature
   Shake my fell purpose, nor keep peace between
   The effect and it! Come to my woman's breasts,
   And take my milk for gall, you murdering ministers,(1.5)

この独白の中では、女であるとは優しい自然と結びついている。女とは中世から近世初期のヨーロッパ人にとって、豊穣の源泉であり、命をはぐくむものであった。それは命を殺す者ではなかったのだ。だからマクベス夫人は自分が女であることをやめてはじめて、心置きなく殺人に手を染めることができると考えたのだ。

一方でマクベス夫人は、母親でありながら子供を殺せる可能性についても言及している。

  マクベス夫人:私も子どもをそだてたことがあります
   お乳を吸っている子供がどんなに可愛いことか
   でも、わたしの顔を見ながら微笑んでいる
   その子の柔らかい歯茎から乳首をもぎ取り
   その子の脳みそをたたき出すことだってできます
   さっきのあなたのように いったんやると誓ったからには
  LADY MACBETH:I have given suck, and know
   How tender 'tis to love the babe that milks me:
   I would, while it was smiling in my face,
   Have pluck'd my nipple from his boneless gums,
   And dash'd the brains out, had I so sworn as you
   Have done to this.(1.7)

この劇の中で、マクベス夫妻には子供はいないことになっている。マクベスはダンカンを殺して王位を簒奪しても、それを引き継ぐべき子孫を持たない。王位を引き継ぐのはバンクォの子孫たちなのだ。

夫人は子供がいないからこそ、こんな残忍なことができると夢想したのだろうか。それともかつては子供を産んで、育てたことがあったのだろうか。夫人自身が子供に授乳したことを語っているから、恐らく子供を産んで育てたことがあったのだろう。

それ故、ここで夫人が吐く言葉はあまりにも非人間的に聞こえるのだ。母親としての自然の感情よりも、王位を欲する野心の方が強い感情として迫ってくる。母親としてのマクベス夫人は、王位を手に入れるという誘惑の前では、自分の子どもを乳房からもぎはなし、その子の脳みそをたたき出しても構わないと思うのだ。

しかしこんな非人間的な感情が彼女の自然な人間性を破滅させる。この劇の後半では、マクベスは常に何者かの幻影に恐れおののくようになるが、マクベス夫人はそれ以上に幻想に苦しむようになる。その幻想とは、人殺しの記憶が幻となって現れるものだ。マクベス夫人は血にまみれた自分の手を目の前に見て、人殺しに対して運命が要求する償いを感じさせられずにはいないのだ。

  マクベス夫人:消えておしまい 忌々しいシミ 消えてしまえー
   ひとつ ふたつ さあやるべき時間だ 地獄は暗いー
   さあ さあ あなた 戦士なら何を恐れるの?
   わたしたちには何も恐れることはないでしょ
   わたしたちの権力にいいがかりをつけるものは誰もいないわ
  LADY MACBETH:Out, damned spot! out, I say!--
   One: two: why,then, 'tis time to do't.--Hell is murky!--
   Fie, my lord, fie! a soldier, and afeard? What need we
   fear who knows it, when none can call our power to
   account?--(5.1)

こうしてマクベス夫人は、幻想に押しつぶされて亡んでいく。夫人以上に弱さを持っているマクベスも、やはり滅びざるを得ない運命にあるのだ。





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