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リア王:シェイクスピアの悲劇



シェイクスピアの悲劇「リア王」を、ヤン・コットはグロテスク劇としてとらえなおした。グロテスク劇とは、ヤン・コットの定義によれば、「別の言葉で書き直された悲劇」ということになるが、悲劇と異なって、人間を超越した絶対者が意味をなさない世界を描いた劇、したがってカタルシスのない劇である。観客はそこに一切慰めを感じとることができない。ただただ救いのない結末に呆然とするほかはないのだ。

悲劇においては、主人公は過酷な運命に翻弄され、時には無慚な死に方をする。死にかかった主人公は、自分の運命を呪い、場合によっては神を呪うこともある。しかし、それは運命なり神という絶対的なものに対するゆるぎない確信があることの裏返しだ。神があると信じている人間だけが、神を呪うことができる。悲劇とはこの信念に基づいた劇なのだ。

悲劇を見ている観客は、主人公の不幸は運命が命じるところであり、神によって定められたままのことが実現されているのだと、感じる。ところが劇の中の主人公にとっては、自分の不幸が根拠のないものとしか感じられない。それ故彼は激しく悩み、時には神を呪う。それが観客の目には、運命に翻弄された弱い人間の不幸なあがきとしてうつる。

このあがきは、運命という巨大なメカニズムにまきこまれた個人が、それを自分のものとして内在化できず、自分にとって外的な力として受け止めるところから出てくる。

その外的な力とは、悲劇にあっては、最終的には神の意思として表される。

どんな運命も、最終的には人間の救いに結びついているのだ。どんな人間も、自分がしたことのお返しとして、最後の審判を期待することができる。最後の審判においては、どんな過酷な人生を受けても、それが恥じることのないものであったならば、彼は救済を期待することができる。

悲劇とはしたがって、絶対者の存在と、その存在が基本的には善意のものだという暗黙の了解を、前提としている。

ところが「リア王」というこの劇においては、絶対者というものは存在しない。だからあらゆる不条理は、それの起源としての理由を持たない。それはただなんとなく人々を奈落の底に突き落とす。それはリーズナブルではなくグロテスクなのだ。

「グロテスク劇とは、だまされる者がだます者よりも正しく、だます者がだまされる者よりも賢い詐欺行為のことである(蜂谷昭雄、喜志哲雄訳)」とコットはいう。つまり人間存在が依拠できるような絶対的で普遍的な基準が意味をなさない世界である。

グロテスク劇にあっては、人間的な運命に代って、非人間的で冷酷なメカニズムが支配する。これを不条理なメカニズムとコットはいっているが、それは人間から超絶した客観的なメカニズムではない。それは人間が自分で仕掛けた罠なのだ。だからグロテスク劇の登場人物は、悲劇の場合のように神の意思をしらずしらず実践するのではなく、自分たち人間が仕掛けたわなにはまってしまうだけなのだ。

ヤン・コットはリア王とヨブ記を比較して、次のように言う。聖書の中のヨブは、われわれ現代人が理解できないようなことをやる。自分の最愛の息子を神の生贄として差し出すのだ。だがヨブがそういう行動をしてなお心静かでいられるのは、そこに神の意思を感じ、自分の運命を神の意志の実現と考えているからだ。ヨブには、自分が救われる終末へのゆるぎない信頼がある。

ところが「リア王はあらゆる終末論を残酷に嘲笑する。地上に実現すると約束された天国も、死後に約束された天国も:いいかえれば、キリスト教的・世俗的両方の神議論が、愚弄されている」

たとえばグロスターの自殺は、神が存在するということを前提としてのみ意味を持つ。それは神の定めたまうた運命に対する抗議であり、一つの終末論に訴えている。だからもしも神が存在せず、運命は人間が自分で作った罠にはまるだけのことだとしたら、道徳や秩序などは問題にならず、グロスターは無駄な死を死ぬこととなる。

ヤン・コットはこのように論をすすめて、現代の観客はリア王を、単なるメロドラマとか、あるいは壮絶な運命の悲劇として、受け取る理由はないといっている。コットのいう不条理なメカニズムは、中途半端な人間的感情を跳ね飛ばしてしまうのだ。

この不条理なメカニズムは、リチャード三世に始まる歴史劇の中でも貫かれていた。王権を巡って殺し合う人々は、神々の意思を実現していたわけではなく、自分で罠を張り巡らし、また他人の作った罠にはまり、時には成功してのしあがり、時には罠にはまって滅亡した。しかしその滅亡はある意味で、自分の意思で選びとったものだ。少なくとも神から与えられたものではない。

シェイクスピアが歴史劇で展開したこの不条理なメカニズムを、悲劇作品の中でもう一度意識的に取り上げたものがリア王だったといえるのではないか。

なお、ヤン・コットがこうした不条理なメカニズムにこだわったことの背景には、いうまでもなく、彼が生きたポーランド社会の状況があった。神ならぬ、共産主義イデオロギーが亡霊という形をとって、すべての国民を絡みとっていた時代、その時代を生きたコットだからこそ、こうした歴史的な視点が芽生えたのだといえる。


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