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ウィンザーの陽気な女房たち Merry Wives of Windsor



「ウィンザーの陽気な女房たち」Merry Wives of Windsor は、シェイクスピアの喜劇の中でも独特な地位を占める。とにかく見て読んで、めちゃくちゃに面白い、理屈なしに楽しめる、劇の観客もシナリオの読者も、腹をかかえて笑えること請け合いだ、これまで人類の歴史の中で演じられてきた喜劇の中で、第一級の作品といってよい。

主人公はウィンザーのブルジョアの女房二人と、あのフォールスタッフだ。自分たちをものにしようとするフォールスタッフの無礼に怒った女房たちが、仕返しにフォールスタッフを三度にわたって懲らしめる、フォールスタッフはそのたびに、はかない望みを打ち砕かれ、ひどい目にあうというのが主な筋書きだ。

スケベな進入者に対して、女たちが知恵を働かせて撃退し、家の平穏を守るというプロットは、ヨーロッパの伝統の中では、喜劇の古典的なテーマだった。シェイクスピアはその伝統を踏まえて、洒落たジタバタ劇を作り上げたわけだ。

では何故フォールスタッフが出てくるのか。スケベ爺を登場させるだけなら、何もフォールスタッフである必要はない。一説によれば、ヘンリー四世の二部作にいたく感心したエリザベス女王が、フォールスタッフを主人公にした恋の喜劇を書くようシェイクスピアに命じたとされる。だがもう一説によれば、シェイクスピアがこの作品を書いたのは、ヘンリー四世の第二部に先立ってということだ。どちらにしても、シェイクスピア自身にも、この作品にフォールスタッフを登場させるだけの、動機があったことは間違いないらしい。

ヘンリー四世のなかでのフォールスタッフは、グロテスクな肉体を振り回しながら、秩序をひっくり返し、権威を嘲笑し、真偽をあべこべにしては喜んでいるような、ふざけた人物として描かれていた。それはカーニバルを始めとしたヨーロッパの伝統的民衆文化の中で、道化やトリックスターとして親しまれていたもののイメージに近い。

ところが第二部の最後の場面に至って、道化としてのフォールスタッフはヘンリー五世となったかつての盟友ハル王子から厳しく拒絶される。これからは権威と秩序が支配すべき時代であり、フォールスタッフが付け入る余地はない、ヘンリー五世はそのように言い渡す。つまり時代は変わったのだ。

宮廷において居場所を失ったフォールスタッフは、現実の市民生活の中でも居場所をもたない。ウィンザーの女房たちの色気と財力に目がくらんだフォールスタッフは、女房たちに恋文を贈って誘惑しようとするが、女たちはその文面によってひどく侮辱されたと感じ、誘惑に応じると見せかけてフォールスタッフを懲らしめにかかる。

こうしてフォールスタッフは、まんまと女房たちの家に引き寄せられる。だがそこはフォールスタッフ得意のドンチャカ騒ぎが演じられる舞台ではなかった。フォールスタッフは女房たちの悪知恵にひっかかって、汚物のかごの中に突っ込まれた上テームズ川に投げ込まれたり、魔女の衣装を着せられてさんざん打ちのめされる。

フォールスタッフが入り込んだ空間は、ブルジョアたちの私的な生活の舞台だ。そこは本来家族の親密な関係が支配すべき空間であり、ただでさえ外部のものがいわれなく立ち寄れるところではない。そこへフォールスタッフが紛れ込んだのは、無論スケベな欲望に引きづられてのことである。それがフォールスタッフには不幸のもとになる。

フォールスタッフは招かれざる客としてブルジョアの家庭に入り込み、その当然の報いとしてひどい罰を蒙る。シェイクスピアはその罰を面白おかしく描くことによって、フォールスタッフがもはや、宮廷のみならず普通の市民生活においても居場所を持たなくなったことを強調しているのだ。

だからこの劇は、シェイクスピアが近代社会をどのように捉えていたかを、伺わせてくれるものだといえる。それはもはや、カーニバルや祝祭喜劇が森や共同体を舞台に演じられる空間ではなくなりつつある。それにかわって、生真面目で律儀な空間が広がり始め、社会のあらゆる部分を覆いつつある。近代人が下卑な仕草や無益な空騒ぎを好まないように、ウィンザーのブルジョアたちも、フォールスタッフ的な混沌を受け入れることは出来ない。それ故フォールスタッフは秩序への侵犯者として、三度にもわたって、ひどい罰を蒙らずにはすまなかったのだ。

この劇が痛快なのは、女房たちの陰謀によってフォールスタッフが蒙る罰の痛さが並外れて大きいからだ。しかもその痛さには根拠がある。根拠を知らないのはフォールスタッフだけで、我々観客は女房たちの陰謀を熟知しながら劇をみている、観客はいわば共犯者だ、観客も女房たちとぐるになってフォールスタッフを懲らしめるための策略に加わる、そしてフォールスタッフが発する痛みの声が大きければ大きいほど、我々は満足して腹を抱えられるのだ。

こんなことをいうと、この劇はサディズムの劇だと受け取られかねない。実際そういえるような部分もある。市民社会というものは、互いが互いにとって狼である限りにおいて、サディスティックな社会なのだ。シェイクスピアの時代にサド侯爵はまだ存在していなかったが、もしシェイクスピアがサディズムの考えを知る機会があったら、そのように感じた可能性もある。

ところでこの劇で、フォールスタッフは三度にわたってひどい目にあう。このうち最初の二回は、フォールスタッフの無礼にいきり立った女房たちが、自分たちだけの手でフォールスタッフを懲らしめる。亭主たちはそのことを知らない。おかげでフォードの亭主などは、嫉妬に狂う余りあやうく角の生えた鹿との評判をとりそうになる。角の生えた鹿とは寝取られ亭主のことだ。

ここまでは、女房たちは自分たちに加えられた侵犯行為を、私的に制裁しているのだといえる。つまり女房たちは自分たちに対する個人的な侮辱を、自分たちの手で報復しているのだ。

ところが三回目の懲らしめは、亭主たちや町の人々を巻き込んで、公の形で行われる。フォールスタッフは衆目の前で断罪されることによって、侮辱した相手の家から追い出されるにとどまらず、市民社会全体からも放逐されるのだ。フォールスタッフは近代的な市民社会の道徳と根本から相容れない、それは社会そのものから排除される運命にある。

筋書きからすればこう要約できるのだが、劇そのものはこうした要約をはみ出すかのように、奇想天外な出来事が連続していく。観客はそれを見て、抱えた腹が納まらない。そこはシェイクスピアの天才がなせるわざだと、いうことができる。



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