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アンチヒーローとしてのシャイロック :ヴェニスの商人


「ヴェニスの商人」という劇に登場するキャラクターの中で、シャイロックは特別な存在だ。序論で述べたように、この劇は基本的には陽気な男女の陽気な恋の物語であって、ユダヤ人の金貸しが出てきて担保に人肉を取るという話は、劇にスパイスを利かせるためにシェイクスピアが挿入したサブプロットと位置づけるべきなのだが、それにしてはシャイロックという人物とその行動とが余りにも強烈なために、観客はこの人物に釘付けになってしまうのだ。

この劇の中のシャイロックは、複雑な人物として描かれている。彼のキャラクターを特徴付けるものは二つある。ひとつはユダヤ人であり、もうひとつは金貸しである。どちらもシェイクスピアの同時代人には毛嫌いされていたものだ。そのふたつの要素がひとつの人物の中で融合したわけだから、シェイクスピアはもっとも嫌われ者の大悪党として受け取られる人物像を観客に示したわけだ。

たしかにシャイロックは悪党として描かれている。人肉を担保に取るということ自体が悪党でなければ発想できないことであるし、実際にそれを実行する段になると、普通の人間的な感情などせせら笑うかのように、平然とその実行を要求する。彼はまた駆け落ちした娘の行き先より、彼女の持ち逃げした財産のほうを心配するような吝嗇漢でもある。

つまりシャイロックは人間的な感情を欠いた冷酷な人物として描かれているわけである。シャイロックと同じような性格をもたされた人物像は、シェイクスピアの時代にはおなじみのものだった。クリストファー・マーローもシャイロックと同じような金貸しのユダヤ人を登場させた劇を作っているが、その中に出てくる「マルタのユダヤ人」は徹底した悪党として描かれている。またシェイクスピアが直接参照した「イル・ペコローネ」の中のユダヤ人も、冷徹一方の人間として描かれ、名前さえ与えられていない。

シェイクスピアの時代にあって、金貸しのユダヤ人とは、誰にもおなじみの極悪非道な典型的人物として、観客や読者に迎えられていたという事情がわかるというものだ。彼らに名前など必要ないのだ。

だがシェイクスピアはこの劇に登場させた金貸しのユダヤ人にシャイロックという名前を与えた。そればかりではない、一人娘を登場させて、その娘にキリスト教徒の男と駆け落ちまでさせている。ということは、シャイロックは顔のない化け物ではなくて、名前も家族もあるひとりの人間として描いているのである。

シェイクスピアの偉大なところは、善悪をひとつの見方だけにたって見ないことだ。一方にとって善であるものが他方にとっては悪であることもありえる。そうした相対的な見方をすることで、人間社会の倫理のあり方を広い視野から捉えなおそうとする態度にたっている。

シャイロックの描き方においても、シェイクスピアは一方的な断罪の立場はとらない。シャイロックはなぜこんな異常な行動に走るのか、キリスト教徒に理解できないことでも、当のシャイロックには彼なりの理由がある。もちろん究極的には受け入れられない理由だが、なぜそうしたことを追求するのか、シェイクスピアはそのように考えて、シャイロックに彼なりの弁明をさせているのではないか。

アントニオの船がことごとく難破して、いよいよ抵当を納めなければならない事態になると、心配したサラーリオがシャイロックに語りかける。契約はたしかに有効に結ばれてはいるが、だからといって人間の肉をそぎとるなど人倫に逸脱した行為だ、したがって許されるべきでもないし、またシャイロックがそんなことを本気で求めるとも思えない。こう思ったサラーリオはシャイロックの人間としての感情に訴える、それに対してシャイロックは契約を盾にその実行を迫る考えに変わりがないことを伝える。

  サラーリオ:なあシャイロック 契約を履行できなかったといって
   まさか肉をそぎとるようなまねはしないよな 何の足しにもならん
  シャイロック:なるとも 釣の餌ぐらいにはな 少なくとも復讐にはなる
   奴は俺を馬鹿にした ことごとく俺の邪魔をして
   俺の損をあざ笑い 俺の稼ぎを罵った
   俺たちユダヤ人を侮辱し 取引の妨害をし 
   俺の味方をしり込みさせ 敵を煽った
   何のためだ 俺がユダヤ人だからだ
   ユダヤ人には目がついてないとでもいうのか 
   ユダヤ人には手がないとでもいうのか
   ユダヤ人にはハラワタが 手足が 感覚が 感情が
   情熱がないとでもいうのか
   キリスト教徒と同じものを食い 同じ武器で傷つき
   冬には同じように寒がり 夏には同じように暑がるんじゃないのか
   ユダヤ人を刺しても血が流れぬとでもいうのか
   ユダヤ人をくすぐっても笑わないとでもいうのか
   ユダヤ人に毒を盛っても死なないというのか
   ユダヤ人なら迫害しても復讐できないというのか
   ユダヤ人だってキリスト教徒と同じ人間だ
   もしユダヤ人がキリスト教徒に悪を働いたらどうなる 復讐だ
   もしキリスト教徒がユダヤ人に悪を働いたらどうだ
   キリスト教徒のお手本にしたがって 復讐するのみだ
   キリスト教徒が教えてくれたとおりに 復讐するのだ
   キリスト教徒の教え以上にうまく出来なかったら 腹の虫が納まらぬ
   (第三幕第一場)
  SALARINO:Why, I am sure, if he forfeit, thou wilt not take
   his flesh: what's that good for?
  SHYLOCK:To bait fish withal: if it will feed nothing else,
   it will feed my revenge. He hath disgraced me, and
   hindered me half a million; laughed at my losses,
   mocked at my gains, scorned my nation, thwarted my
   bargains, cooled my friends, heated mine
   enemies; and what's his reason? I am a Jew. Hath
   not a Jew eyes? hath not a Jew hands, organs,
   dimensions, senses, affections, passions? fed with
   the same food, hurt with the same weapons, subject
   to the same diseases, healed by the same means,
   warmed and cooled by the same winter and summer, as
   a Christian is? If you prick us, do we not bleed?
   if you tickle us, do we not laugh? if you poison
   us, do we not die? and if you wrong us, shall we not
   revenge? If we are like you in the rest, we will
   resemble you in that. If a Jew wrong a Christian,
   what is his humility? Revenge. If a Christian
   wrong a Jew, what should his sufferance be by
   Christian example? Why, revenge. The villany you
   teach me, I will execute, and it shall go hard but I
   will better the instruction.

シャイロックの言葉は観客には叫びとして響いたに違いない。シャイロックはユダヤ人としての自分に加えられた数々の不正義を取り上げ、自分はそれらの不正義に復習するのだといっている。そしてその復習は、ユダヤ人社会とキリスト教社会との両方に通じる普遍的な感情に基づいているはずだと主張する。

つまりシャイロックは、ユダヤ人もキリスト教徒も、人間としての普遍的なあり方からすれば平等だと主張しているわけだ。それが平等でなくなるのは、ユダヤ人とキリスト教徒の間に隙間ができることの結果だ。

その隙間をはさんだ別々の次元で、ユダヤ人もキリスト教徒も生きている。そこに相互無理解が生じ、それがさらに政治的社会的な力関係によって、一方から他方への、強いものから弱いものへの迫害として現れてくる。

この迫害を白日の下で暴きだし、その不合理を問題に取り上げるためには、エクセントリックなこともなされなければならない、シャイロックはそのように叫んでいるようなのだ。

この言葉を叫ぶときのシャイロックはだから、ある意味でヒロイックでさえある。そのヒロイズムを見逃すようでは、シェイクスピアがこの劇になぜシャイロックを登場させたか、わからないで終わってしまうだろう。

もちろんシャイロックはキリスト教徒の敵であり、したがって悪党であるから、基本的にはヒューマンな人間でいることはできない。だから娘の駆け落ちを知ると、娘の身の上を心配するより、娘の持ち去った財宝の心配をするように、運命付けられているのだ。

  シャイロック:ああ なんということだ ダイアが消えてしまった
   フランクフルトで2000ダカットも出して買ったダイアが
   こんな呪いは我が民族の間でもかつてなかったことだ
   こんなな情けない思いをするのは始めてだ
   あの箱には2000ダカットのダイアのほかにも
   いろいろ貴重な宝石が詰まっていたんだ
   娘など俺の足元で死ねばいいのだ
   宝石が耳に飾られて残ってさえいれば
   俺の目の前で棺桶に入れられればいいのだ
   金さえ残っていれば
  SHYLOCK:Why, there, there, there, there! a diamond gone,
   cost me two thousand ducats in Frankfort! The curse
   never fell upon our nation till now; I never felt it
   till now: two thousand ducats in that; and other
   precious, precious jewels. I would my daughter
   were dead at my foot, and the jewels in her ear!
   would she were hearsed at my foot, and the ducats in
   her coffin!

もっともシャイロックは、劇の終わりのところで娘に対する父親らしい感情を示すようにはなる。わずかながらでも残った財産を、娘たちに遺贈すると申し出るのである。

この結末をどう見るかは、劇の観客あるいはテクストの読者にゆだねられている。





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