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エロティシズムと獣性:オセロ


イヤーゴの憎しみは並外れたものだ。それは当面はオセロへの憎しみを核にしているが、その延長でオセロの妻のデスデモーナを巻き添えにして破滅させ、またオセロの副官キャシオを罠にはめて破滅させる。こんなイヤーゴを、現代の観客は悪魔的な人物だと受け取るのだ。

だがイヤーゴの性格はそんなに単純なものではない。彼はただの悪魔ではないのだ。ただの悪魔なら、自分は芝居の筋から超越したところに立脚し、外部から芝居の登場人物を操作して、彼らを破滅させることで満足するだろう。

だがイヤーゴの場合はそうではない。彼は芝居から超越しているわけではない。彼は芝居にとって内在的な人物で、つまり芝居の構成要素そのものだ。構成要素の一員であるから、彼は芝居によって断罪され、最後には自分のしたことの責任を追及されて拷問を受けることもあるのだ。

悪魔でもないものが、なぜこうまで悪魔的なことをするのか。イヤーゴの悪党ぶりはそれほど桁外れなのだ。人間としてここまで邪悪になれるなどとは、現実の世界では想像できない、それほどイヤーゴは邪悪なのだ。

しかし邪悪とはいったい何なのだろう、こう反省しながらイヤーゴの邪悪ぶりとされるものをよくよく分析してみれば、我々はそこに複層的なものを見出すこととなろう。

一つは、イヤーゴの個人的な動機に潜んだ悪意が邪悪さにつながる層である。その悪意はオセロに対する個人的な怨恨に発している。オセロから蒙った侮辱をイヤーゴは許すことができない。それは何としてでも、どんな手段を使ってでも晴らさねばならない。だが相手は力が強く、簡単には屈服させることができない。そこでイヤーゴはさまざまな謀略を用いて、オセロとその周囲の人々を破滅へと追いこんでいくのだ。

もうひとつ、イヤーゴの動機には、もっと一般的な性格のものがある。彼は特定の動機に基づいて他人を罵倒するばかりではない、そうすることが世の中の一つのスタイルとして当然のあり方なのだという具合に、罵倒する場合がある。これは、罵倒のための罵倒とでもいうべきもので、感情ではなく理性に基づいた行為だといえる。つまりイヤーゴには、ひとをほめるべき時に、逆に罵倒することで、親密さを表現しようとするようなところがある。

  イヤーゴ:たったいま このいまにも 年取った黒い羊が
   あんたの白い子羊ちゃんに跨ろうとしていますぜ
   さあ鐘を鳴らしてみんなを叩き起こしなさい
   でないとあの悪魔野郎があんたのお孫さんをこしらえますぜ
   さあ急いで
  IAGO:Even now, now, very now, an old black ram
   Is topping your white ewe. Arise, arise;
   Awake the snorting citizens with the bell,
   Or else the devil will make a grandsire of you:
   Arise, I say.(1.1)

これは、劇の始まりのところで、オセロとデスデモーナの結婚を、デスデモーナの父親ブラバンショに告げる場面である。イヤーゴがオセロたちの結婚を、いまいましそうに言及するのは、無論オセロへの憎しみに根差しているが、その憎しみを表す言葉がユニークだ。

年をとった黒い牡羊がうら若い白い雌羊に跨っているとは、いかにも卑猥な表現だ。そんな卑猥な言葉で、黒いオセロと白いデスデモーナの結婚を表現している。そう告げられたデスデモーナの父親はびっくり仰天する。

  イヤーゴ:あんたは娘さんがアフリカ馬に乗られても構わんのですか
   まごまごしてると仔馬たちがヒヒーンとあんたに呼びかけ
   あんたはそいつらの手綱を引くはめにまりますぜ
  ブラバンショー:だれだ 貴様は
  イヤーゴ:わたしはね あんたの娘さんとあのムーア野郎が
   腹は一つで背中が二つある化け物になりそうだと
   知らせに来たものですよ
  IAGO:you'll have your daughter covered with a Barbary horse;
   you'll have your nephews neigh to you; you'll have
   coursers for cousins and gennets for germans.
  BRABANTIO:What profane wretch art thou?
  IAGO:I am one, sir, that comes to tell you your daughter
   and the Moor are now making the beast with two backs.(1.1)

先ほどの羊の比喩は、ここでは一歩進んで、背中を二つ持った怪物のイメージに発展する。背中が二つあるとは、男女が正常位で抱き合いながら結合しているイメージだ。二人の結婚は、イヤーゴにあっては、獣のエロティシズムとして表現される。

これは悪意の表現というよりは、世界解釈のひとつのスタイルといってよい。イヤーゴにとっては、人間様の行いと獣の生き様との間に、何らの相違もないのだ。

イヤーゴは、そんなエロティシズムを、デスデモーナに向かってもぶつける。

  イヤーゴ:だいたい女というものは 外ではお人形さん気取り
   家の中ではガミガミ屋 台所では山猫
   悪事をなすときは聖女面 腹を立てれば悪魔面
   家事はこれっきしなのに ベッドの中では働き者
  デスデモーナ:なんてことをおっしゃるの!
  イヤーゴ:本当のことをいったまで
   女というものは 起きては怠け 寝ては働く
  IAGO:Come on, come on; you are pictures out of doors,
   Bells in your parlors, wild-cats in your kitchens,
   Saints m your injuries, devils being offended,
   Players in your housewifery, and housewives' in your beds.
  DESDEMONA:O, fie upon thee, slanderer!
  IAGO:Nay, it is true, or else I am a Turk:
   You rise to play and go to bed to work.(2.1)

女の本姓はベッドの中でこそ発揮されるというのは、女と云うものの本質は子供を産むという点にあるとみる限りで、女も自然の一部なのだとみる見方だ。

こうしてみれば、イヤーゴは冷めた目でこの世の成り行きを見ているのだと、いうことができるかもしれない。実際彼はこの劇の中で登場する人物の中では、もっとも冷めた目をしているといえる。その眼は時には個人的な怨恨で曇ることはあるが、それでも経験に裏打ちされた確かさを感じさせる。

イヤーゴは、オセロを強烈な嫉妬に追い込もうとして、一芝居うつ。キャシオとデスデモーナが不倫をしていると、オセロに信じさせるために、二人が親密にしているところを、オセロに見せるのだ。

無論それは、根拠のないことだったが、二人が話しているところが遠目には、男女の親密な関係を物語っているように見える。

  イヤーゴ:女の手を握ったな。そうだ、囁きかけろ
   こんなに小さな蜘蛛の巣でもキャシーというでかいハエを捕まえてやる
   そうだ女に微笑みかけろ
   そのお前の愛相笑いをお前自身に返してやるから
  IAGO:[Aside] He takes her by the palm: ay, well said,
   whisper: with as little a web as this will I
   ensnare as great a fly as Cassio. Ay, smile upon
   her, do; I will gyve thee in thine own courtship.
   You say true; 'tis so, indeed: if such tricks as
   these strip you out of your lieutenantry, it had
   been better you had not kissed your three fingers so
   oft, which now again you are most apt to play the
   sir in. Very good; well kissed! an excellent
   courtesy! 'tis so, indeed. Yet again your fingers
   to your lips? would they were clyster-pipes for your sake!(2.1)

イヤーゴは、キャシオが自分の指を唇にあてがう癖を見て、こういう、いっそ自分のケツの穴にでも突っ込めと。

こうしたイヤーゴの言語表現は、フランソア・ラブレーのスカトロジーやシェイクスピア自身が想像したフォールスタッフのものとよく似ているのだ。

この劇の中のイヤーゴの位置づけは決して道化ではないが、道化的な要素を内包していることは間違いない。劇中道化と名乗った人物が出てくるが、彼らは本格的な道化とは言えない。本格的な道化はむしろ、イヤーゴによって演じられる。彼は道化としての自覚を持たない道化なのだ。





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