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オセロ(Othello):シェイクスピアの四大悲劇



オセロ(Othello)はシェイクスピア劇の中で最も大きな成功を収めた作品だ。17世紀の冒頭に上演されて以来、エリザベサン時代に続くジャコビアン時代にも人気を博し、クロムウェルの時代にも生き残り、世紀を超えてヴィクトリア時代にはシェイクスピア劇の神髄と評価され、20世紀においても、偉大な作品だと考えられてきた。

実際シェイクスピア劇の中で、オセロは抜群に多い上演記録を誇ってきた。その秘密は何だろう。

ひとつには、プロットにわかりやすさと深刻さとが共存しており、いつの時代の人間にも身につまされるような親近感ある題材を取り上げていることだ。それでいて、エクゾティズムを盛り込むことも忘れていない。娯楽としての要素にも優れているのである。

アフリカ出身の黒人がヴェニスの娘と恋に落ちたものの、いらぬ言葉を信じたがために嫉妬に苦しみ、ついには無実の妻を自分の手で殺してしまう。簡単にいえば、こんな単純な筋書きだ。単純さはしかし、退屈さとは違う。

まず、シェイクスピアがなぜ、黒人を主人公に選んだのか、そこのところが興味を呼ぶ。シェイクスピアの時代には、黒人はすでに奴隷貿易の対象であったから、観衆の意識の中では、差別的に見られていたに違いない。当時のロンドンには黒人の姿は殆ど見られなかったことからして、人々の差別意識は実体的な重さは伴ってはいなかっただろうが、それにしても悲劇の英雄として、白人の女性と深い恋に陥るというのは、思いがけない設定だったに違いない。

これは、シェイクスピアが材料に使ったチンティオの物語に由来している。これは1565年にヴェニスで出版されているが、話の筋は、ムーア人と結婚したデスデモーナが、肌の色や慣習の違いに由来する葛藤に苦しみ、不幸な結末を迎えるというものだったらしい。人種的な要素を持ち込んではいるが、基本的には家庭内の悲劇を扱ったメロドラマだといってよい。

シェイクスピアはこれをただのメロドラマではなく、規模の大きな悲劇に仕立て上げた。ムーア人は傭兵隊長としてヴェニスの英雄となったオセロということにされ、そのオセロが狂気じみた嫉妬の感情にさいなまれる。その感情は理性では抑え込むことができぬほど強烈であり、オセロは自らの手で妻を縊り殺さねばならぬ羽目になる、それは当然、自分も生きてはおられぬことを意味している。こうした具合で、オセロが嫉妬に取りつかれるのは避けられぬ必然のように描かれ、観客はそこに運命の働きを見るように仕向けられる。

つまりこの悲劇は、たんなる家庭内のいざこざを描いたメロドラマではなく、巨大な運命に翻弄される主人公の、不条理な結末を描いた悲劇なのだといえるわけなのである。

しかし、原作に出てくるものがムーア人だったからといって、なにもこの作品の主人公を黒人に設定すべき必然性はなかったはずだ。それなのにあえて、シェイクスピアはオセロを黒人として描いた。

しかし、少なくとも劇の前半では、観客はオセロが黒人であることを、殆ど意識させられることがない。オセロは白人であってもよかったのではないか。そう思わせるほどだ。ところが、劇の終末で、オセロが妻のデスデモーナを殺す場面が展開されると、エミーリアがオセロを罵る場面が出てくるのだが、その時の罵りの言葉として、悪魔という言葉とともに黒人という言葉が出てくる。この言葉には、無実の妻を殺すような男は、悪魔や黒人の同類だという露骨な差別意識が込もっている。

だからといって、シェイクスピアが黒人に対して露骨な差別意識を抱いていたとは結論付けられない。シェイクスピアは「ヴェニスの商人」のなかでも黒人のモロッコ王を登場させているが、彼を特に劣った存在として描いているわけではない。むしろユダヤ人であるシャイロックの扱い方に、当時のイギリス人の差別意識が表れているといってよい。

オセロが黒人であることにこだわったのは、むしろ後世のシェイクスピア演出家の方で、彼らの多くは、オセロを黒人ではなく、東洋人として描きたがった。東洋人といっても、北アフリカのイスラム教徒のことだ。

このオセロが、強烈な嫉妬に見舞われる。その挙句オセロはたった今結婚したばかりの妻デスデモーナを、残酷にも縊り殺してしまう。その場面をエミーリアに見られ、我に返ったオセロは、自分を深く責める。その自責の念は自分で自分を殺すことによってしか解決することができないのだ。

たったいまといったが、オセロという劇はわずか二日間に圧縮された時間の中で展開するのだ。この二日の間に、オセロはデスデモーナと結ばれ、彼女に対して疑念を抱き、それが強烈な嫉妬となってさいなまれた挙句、ベッドに横たわっていたデスデモーナの首を絞めるのだ。

面白いことに、オセロによるデスデモーナの殺害場面は、いろいろな解釈を許してきた。もっともポピュラーになったのは、デスデモーナがナイトキャップをかぶってベッドに横たわり、夫の来るのを待っているというシーンだ。原作にはこんなことは指示されていないから、これは演出家が勝手に作り上げたシーンなのだ。にもかかわらず、このシーンが長く用いられてきたのは、オセロを家庭内の悲劇としてみようとする、18−19世紀の観客の意向に沿った演出なのだと考えることができる。

オセロがデスデモーナを殺す場面は、原作では首を絞めるということになっているが、これもなぜか、オセロが両手でデスデモーナの首を絞めるのではなく、枕で彼女の顔を塞ぎ窒息させるという演出が支配的になされてきた。殺人場面ではあるにせよ、あまり残虐なシーンはこの芝居には似合わないという、演出家の配慮があったからだろう。ローレンス・オリヴィエなどは、枕で顔を塞ぐ代わりに、接吻で息を塞いで殺すという、心憎い演出をしているほどだ。

デスデモーナの殺害場面は、この劇のハイライトというべきところだが、どういうわけか、その部分のテクストを読むと、曖昧なところが多い。オセロに首を絞められて、いったんは絶命したかに見えたデスデモーナが、息を吹き返してエミーリアと言葉を交わし、その中で、自分を殺したのは夫のオセロではなく自分自身だ、つまり自分は自殺したのだと受け取れるような言葉をいう。

何故彼女がこんな不自然な行動を、それもいざ死ぬという段になってしたのか、テクストの読者にはよくわからない。つまりデスデモーナの死に際の行為には必然性が感じられないのだ。それは最後にオセロが自分を殺す場面でも、感じられることで、オセロはいったいどんな気持ちで自ら死んだのか、切々とは伝わってこない。

以上は劇のプロットに即する形で、この劇の特徴をスケッチしたものだ。だがこの劇の神髄は、登場人物たちが発する言葉の重みにある。その重みがわからないでは、何故オセロが狂気じみた嫉妬に駆られ、結婚したばかりの妻を殺さなければならなかったか、その必然性が全く理解できないだろう。

とにかく先ほども言ったように、この劇はわずか二日間の間に進行した事態を描いているのだ。昨日結ばれた女性を、今日憎むようになり、その挙句に縊り殺してしまう、これがこの劇の筋書きだ。こんなめちゃくちゃな話は、どこの世界を訪ねても、決して見つかるものではない。



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