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シェイクスピア劇のハイライト



シェイクスピアの歴史劇
 リチャード三世 RichardⅢ
 リチャード二世 RichardⅡ 
 ジョン王 King John
 ヘンリー四世第一部 HenryⅣ Part1
 ヘンリー四世第二部 HenryⅣ Part2
 ヘンリー五世 HenryⅤ

シェイクスピアの喜劇
 真夏の夜の夢 A Midsummer Night's Dream
 ウィンザーの陽気な女房たち Merry Wives
 じゃじゃ馬馴らし Taming of the Shrew
 ヴェニスの商人 The Merchant of Venice
 から騒ぎ Much Ado about Nothing
 お気に召すまま As You Like It
 十二夜 Twelfth Night
 終わりよければすべてよしAll's well that ends well
 尺には尺を Measure for Measure

シェイクスピアの悲劇
 ロメオとジュリエット Romeo and Juliet
 ジュリアス・シーザー Julius Caesar
 ハムレット Hamlet
 トロイラスとクレシダ Troilus and Cressida
 オセロ Othello
 リア王 King Lear
 マクベス(Macbeth)
 アントニーとクレオパトラ Antony & Cleopatra
 コリオレイナス Coriolanus

シェイクスピアのロマンス劇
 ペリクリーズ Pericles
 シンベリン Cymbeline
 冬物語 The Winter's Tale
 テンペスト The Tempest

シェイクスピアのソネット Sonnets
詩集:緋色の愛

シェイクスピア研究




シェイクスピアは、我々東洋の島国で生きている人間にとっても、馴染みのある人物だ。今もあるかと思うが、東京にはシェイクスピア劇専門の劇場があって、そこで日本人スタッフによるシェイクピア劇が上演されるほか、ときには本場イギリスからシェイクスピア・カンパニーがやってきて、公演をしたものだ。小生もかつて、大久保にあるその劇場(東京グローブ座という)に足を運んだものだった。また、日本人のシェイクスピア好きは、黒澤明が日本人向けに翻案した映画(「乱蜘蛛の巣城」と「乱」)が大ヒットしたことにも表れている。黒澤の「蜘蛛の巣城」は、「シェイクスピア悲劇を翻案した映画の中で最も普遍的で、ある意味では最も忠実で、最もシェイクスピア的」だと、これはシェイクスピア研究の第一人者として知られるヤン・コットも太鼓判を押した。

シェイクスピアが、21世紀の極東の島国においてさえ、このような受容のされ方を享受しているのは、その作品が持つ、時代と社会を超えた普遍性の為だと思われがちだ。たしかにそういう面はあると思う。だが、シェイクスピアの作品、とりわけ戯曲には、時代と社会的な雰囲気を感じさせるものが多い。というより、シェイクスピア劇というのは、かれが生きていた時代のイギリスそのものをまるごと詰め込んだようなところがある。そういう意味ではシェイクスピア劇とは、すぐれて特殊な背景から生まれたのだといえる。その特殊性が、普遍性につながっているといえるわけで、そこにシェイクスピアの偉大さがあるのだと思う。

シェイクスピアが生きたのは、単純化して言えば、ルネサンス期のイギリスだ。イギリスのルネサンスは、イタリアやフランスあるいはフランドルといった大陸諸国と比べれば典型的な色彩には乏しいが、やはり中世から宗教改革を経て近代に移行する通過点という意味合いは十分にもっていた。シェイクスピアの現役時代には、ピューリタン革命はまだ始めってはいなかったが、中世の、ある意味祝祭的な雰囲気を脱して、近代に移行しようとする、過渡的な時代の雰囲気は、大陸諸国と同様、十分にもっていた。そういう時代に生きたシェイクスピアは、一方では中世的なものの残渣を感じさせるとともに、新しい時代の息吹をかすかながらも感じさせるところがあって、そこに我々は、ルネサンス人としてのシェイクスピアを認めることができる。

シェイクスピアが演劇作家として活動を始めた時には、歴史劇と喜劇を主に作っていたが、その時代のシェイクスピアのもっとも重要な特徴は、一連の道化を登場させていることだ。ヘンリー四世を中心とした王権劇にはフォールスタッフという愉快な宮廷道化が出て来るし、また、初期の喜劇作品には、タッチストーンとかフェステといった道化が出て来る。こういう道化は、イギリスに限らず、ルネサンス期の各国の演劇や文学に共通したキャラクターだといえる。一説によると、道化とは時代の変わり目に現われるものだということだ。そういえば、19世紀から20世紀への代わり目にも、道化が演劇や文学を彩ったものだ(サーカスのピエロなど)。シェイクスピア劇の場合には、道化があらわれるのは、かれの活動期の前半に集中しており、後半には出て来ない。唯一例外は「リア王」の道化だが、この道化は他の道化と比べて、著しく精彩を欠いている。

一方、シェイクスピア劇の初期の作品には、中世的なものを多大に感じさせるところがある。「真夏の夜の夢」は、中世的な幻想を演劇化したものといえるし、「ロメオとジュリエット」は、中世的な男女の性愛を描いている。そうした中世的なものへの関心は、最晩年期の作品までかわらない。そういう点では、シェイクスピアは、新しい時代の息吹より、古い時代の残響を、より多く感じさせる。だから、シェイクスピアを、最後の中世人と称しても差し支えないくらいだ。

そうした中世的なおおらかさは、とくに喜劇において目立つ。シェイクスピアの喜劇はすべて結婚で終わっているのだが、これは中世の喜劇に共通した特徴だ。日本では、喜劇と漢字で書くと、笑いがテーマのようにうけとられがちだが、ヨーロッパで喜劇、つまりコメディといえば、それは結婚で締めくくられる劇のことをさしていたのである。

結婚を賛美するのが喜劇というわけだが、そのわりに中世のヨーロッパ人は結婚を大切には思わなかった。中世の恋愛観は、結婚を軽蔑して姦通を賛美していたのである。フランスで流行った騎士の歌は、男が女に姦通を呼び掛けたものだし、イギリスの中世の恋愛詩も、姦通が主要なテーマだったのである。フランソア・ラブレーの登場人物たちは、みな女房が寝取られることを心配しているが、それはイギリスの「カンタベリー物語」に出て来る男たちにも共通している。

悲劇についていえば、それらは初期の王権劇の発展したものと見ることができる。とくに「リチャード三世」の持つ意義は大きい。シェイクスピアの演劇の世界は、喜劇的な雰囲気のものをのぞけば、いずれも「リチャード三世」の変奏曲と言ってもよい。シェイクスピアが「リチャード三世」で描いたのは、人間の生の偶然性ということであったが、そうしたシニカルな人生観は、シェイクスピアの悲劇の世界全体を彩っているといえる。

シェイクスピアの悲劇の特徴は、死を主要なテーマにしていることだ。ハムレットも、リア王も、マクベスも、オセロも最後には死ぬ。かれら劇の主人公が死ぬばかりではない、かれらの周囲にいるものたちも又死ぬ。こういう具合に、死をテーマにするところは、中世的なものの延長という面を指摘できるが、一方、死をめぐる堅苦しい議論は、ピューリタン的な偏執ぶりを感じさせもする。そういうわけでシェイクスピアには、とくに悲劇において、中世的なものと近代的なものとが混交しているという印象を与える。

ここではそんなシェイクスピア劇の世界について、テクストに即しながら鑑賞していきたい。鑑賞しながら適宜管理人によるハイライト部分の日本語訳を配し、あわせて簡単な解説と批評を加えたい。








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